鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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の《寿老人図》と近似している〔図22〕。芳崖が青年から壮年時に使用していた「勝海」の款記のある《布袋図》(下関市立美術館蔵)〔図20〕と比べると、一見その様相には大胆な変化が認められない。しかし、その細部を比較するならば、明治15年の布袋図には異常なまでの体毛の描きこみや、垂れ下がった皮膚、不自然に短い四肢など奇怪さが付与されている。2)−3久爾宮家旧蔵と伝えられる《柳下鍾馗図》(下関市立美術館蔵)がある〔図23〕。久爾宮家は、島津公爵家とゆかりのある宮家で、明治32年(1899)忠義の娘俔子が当主邦彦王と結婚している。本作は、この輿入れの際や、またはその縁組にともなって島津家から宮家に献上された可能性が高い。鍾馗図という内容からすると、王子の節句などで献上されたとも考えうる。本図をみると、絹本着色で、ところどころに金泥が施され同時期の芳崖の作品と比べても華美な仕立てであるといえる。落款も、島津公爵家旧蔵のものと近しく、同じころの制作と考えてよい一つの確認点である。また、売立目録(昭和3年)に掲載されている《鍾馗図》〔図24〕と比較しても、その表情などは類似している。以上のような状態確認により、本作が島津家から宮家に献上された可能性を考える。柳の下に鍾馗が姿をひそめ画面右前方向を凝視している。風になびく柳の枝と鍾馗の髭や裾が画面の中に動きを出している一方で、鍾馗の鋭い視線は画面には描かれない鬼(か何か)をじっととらえて離さない。静動の掛け合わせが画面に緊張感を与えている。柳の木、鍾馗、岩、山、青色の遠山と物理的な重ね合わせによる遠近法がみられる。これは先に紹介した石田氏の《観音》では、岩の重なり、墨の濃淡による遠近感が《悲母観音図》より強調されているという見解と共通する。結びにかえてここまで12年頃から15年頃までの島津公爵家に雇われていた時代の芳崖の作品について概観した。以上を整理すると、この島津公爵家に雇われていた時期には、夏珪などの宋画や雪舟などの日本の古画の学習が試みられていた〔図3〜6〕。同時に、芳崖の置かれていた環境を考えるならば、東京にあってほかの絵師たちなどとの交流やさまざまな見分などを自身の画業に取り込んでいたと考えられる。古画の模写もあり、筆意を倣った作品もあり、一方で、晩年に複数制作される懸崖山水図〔図17〕のような、それまでの山水画とは趣の異なる空間表現がみられる作品も制作している。― 365 ―

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