鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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注⑴「日本絵画とフヘネロサ氏」『太陽』第2巻20号、明治29年(1886)、138頁。⑵佐藤道信「鑑画会再考」『美術研究』第340号、昭和62年(1987)、1−27頁、巻頭図版7枚。及び佐藤道信「鑑画会とフェノロサ」『日本近代美術と西洋』(明治美術学会国際シンポジウム)、平成4年(1992)、197−208頁。芳崖は習得した技法や経験を自在に組み合わせ独自の手法へと咀嚼して蓄積していった。つまり、例えば、御用絵師の時代の作品にもみられる石窟のなかに人物を配するようなスタイルは、最晩年の作品にまで継続され、また維摩居士図のように応用され、結果的に新日本画として認識される作品が生まれた。フェノロサに雇われる以前に、既に芳崖自身の画風の中に新日本画に通じる要素を芽生えさせていた、そうしたべースがあったからこそ、芳崖がフェノロサ理念のよき実践者となったのであろう。《梅潜寿老人図》の模写作品については、フェノロサと芳崖が明治15年の内国絵画共進会を待たずしてその存在を認識しあっていた、または既に知り合っていた可能性をにおわせる作品であり、このことは今後の課題として残った。関連して、このような芳崖の古画学習についての考察は、芳崖の画業全体を把握する上でも重要であり、かつ意義のあることと考えるが、現在所在不明の作品が多く、実際に考察を深めるためには、もう少し粘りのある調査を続ける必要があるであろう。また、このたびの助成金を利用して、狩野芳崖の作品について、その所在をうかがう全国主要美術館・博物館にアンケートを実施した。332館に発送をし、179館から回答を得た〔表2〕。引き続きこのアンケート結果をもとに、狩野芳崖の全容をつかむべく調査を進めていきたい。今後はこれらの情報を活用し、データベース化を図ることで、更なる芳崖研究に寄与していきたい。最後になりましたがご協力いただいた各館ご担当者につきましては、この場を借りて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。⑶山口静一『フェノロサ:日本文化の宣揚に捧げた一生』(上)、昭和57年(1982)、232−242頁。⑷山口静一訳「フェノロサ手稿『日本絵画奇襲品解説付目録』」『在外日本の至宝』別冊、昭和55年(1980)。なお、このことに関しては、先行山田氏論文に言及されている。(山田久美子「狩野友信─明治を生きた最後の奥絵師㈠─ 生い立ち・修行・奥絵師時代・作品」『Lotus : 日本フェノロサ学会機関誌』第19号、平成11年(1999)、1−28頁。⑸高屋肖哲編『芳崖遺墨(前編)』明治35年(1902)。(国立国会図書館近代デジタルライブラリーより)⑹岡倉秋水「狩野芳崖翁の生涯と其作品(特別附録)」『書画骨董雑誌』第107号、大正6年⑺瀧精一「芳崖、雅邦を論ず」『国華』第434号、昭和2年(1927)、24−31頁。(1917)、41−50頁。― 366 ―

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