研 究 者:兵庫県立歴史博物館 学芸員 五十嵐 公 一山本友我(生年不詳〜1669)は、鳳林承章の『隔蓂記』に頻繁に登場する絵師である。現在までに知られている作品は「麝香猫図」(妙法院)(注1)、「平敦盛像」(須磨寺)の二点だけだが(注2)、『隔蓂記』から具体的な活動が分かることもあり、寛永文化の一端を担う絵師として熊倉功夫『寛永文化の研究』などで注目されてきた(注3)。その『隔蓂記』によれば、友我が鳳林承章と初めて面識をもったのは寛永21年(1644)11月5日である。そして、鳳林承章を介して人脈を広げ、後水尾法皇の知遇も得る。正保4年(1647)8月18日には法皇から屏風絵作成の命をうけ、同年11月17日までにそれを完成。その結果、慶安元年(1648)2月29日に法橋に叙せられた。友我は京都で認められた絵師だったのである。この友我が『隔蓂記』に最後に登場するのは寛文4年(1664)10月14日条である。そのため『隔蓂記』ではそれ以降の友我の足跡を追えないのだが、その人生は暗転していったようだ(注4)。ある時、友我の息子・山本泰順(1636〜69)に有徳人の娘との縁談が持ち上がる。しかし、その頃の友我親子は金銭に窮していたらしく、友人に相談したところ、「縁組相手は有徳人の娘だから金子三四百両は持参するだろう。それを得るまでの一時の方便として、偽物の長崎の糸荷で質屋を欺き金銀を借り受けろ。質屋には祝言後に娘の持参金で返金すればよい」との助言を受け、友我親子はそのとおり実行した。ところが縁談は壊れ、質屋への返済期限も切れた。質屋から借りた金は遣ってしまい、質草にした糸荷も偽物だとばれた。その結果、友我親子は京都所司代・板倉重矩(1617〜73)に裁かれ、寛文9年(1669)10月14日に粟田口で「はりつけ成敗」となった。以上のことが『板倉政要』『狛平治日記』に記されている。友我は法橋位を得た絵師であり、息子の泰順は若くして『古今軍林一徳抄』『洛陽名所集』『四家絶句』などを著した人物だった(注5)。その親子が詐欺の罪状ではりつけ成敗となったのである。そのためか、この事件は当時の京都で相当に話題となったようだ。現在までに知られている友我の作品が二点だけなのも、この事件が一因なのかもしれない。その友我の作品が、この度の調査研究助成により新たに二点確認できた。「神農図」― 27 ―③山本友我の研究
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