鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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と「瀟湘八景図」である。前者の「神農図」(111.0×47.5センチ、紙本着色)〔図1〕は全体に虫損があり、画面の状態は悪い。それでも手慣れた絵師によるものであることは分かる。「法橋有我欽写」の署名、「吏斬」(朱文円印)(注6)、「是尚」(白文重廓印)もある〔図2〕。この「吏斬」(朱文円印)は「平敦盛像」、「是尚」(白文重廓印)は「麝香猫図」「平敦盛像」に捺されているのと同印である。また、友我が法橋となるのは慶安元年(1648)2月29日だから、それ以降に描かれたこと、友我は「有我」とも記す場合があったことが署名から分かる。貴重な作品といえるだろう。しかし、「神農図」以上に興味深いのが、後者の「瀟湘八景図」(99.3×31.8センチ、絹本着色)〔図3〕である。「友我筆」の署名、「山本」(白文瓢印)をもつ作品で、室町時代の詩画軸かと思える一幅である。画面を見ると「山市晴嵐」が家屋と人々、「遠浦帰帆」は五隻の帆船、「遠寺晩鐘」は寺塔、「漁村夕照」は漁労する人、「洞庭秋月」は満月、「平沙落鴈」は雁群、「瀟湘夜雨」は蓑をまとった人、「江天暮雪」が雪山で示されていることに気づく。これらはいずれも細かい筆遣いで丁寧に描かれており、これだけでも十分に興味深い〔図4〕。しかし、この作品が更に興味深いのは、描かれた経緯、そして「江閣元良(南禅寺の最岳元良)」「三江叟紹益(建仁寺の三江紹益)」「泉南寿洪(天龍寺の玄英寿洪)」「西川寿仙(天龍寺の洞叔寿仙)」「竹窠承章(相国寺の鳳林承章)」「岐山梵崟(相国寺の雪岑梵崟)」「番易永洪(建仁寺の鈞天永洪)」「常山円旦(東福寺の周南円旦)」の八人の五山僧による賛文と「棲碧老衲(相国寺の昕叔顕晫)」の跋文が記された経緯が『隔蓂記』から具体的に分かる点である。こういう例は実に珍しい。先ずはこの「瀟湘八景図」が描かれ、賛文と跋文が整うまでの経緯を『隔蓂記』で確認したい。正保2年(1645)12月22日、江戸にいた金地和尚(最岳元良)から鳳林承章にある依頼があった。絹一枚に狩野安信(1614〜85)が描いた八景図への着賛だった。八人の着賛者の一人として、鳳林承章が選ばれたのである。その八人の内訳は、山市晴嵐が常光翁(三江紹益)、遠浦帰帆が真乗翁金地院(玄英寿洪)、秋月が鳳林承章、遠寺夕照が慈済翁(洞叔寿仙)、落雁が勝定翁(雪岑梵崟)、夜雨が十如翁(鈞天永洪)、暮雪が艮岳翁(周南円旦)だった。年が明けて正保3年(1646)正月7日、鳳林承章が洞庭秋月の着賛をする順番となり、絵が届いた。すでに三江紹益、玄英寿洪、洞叔寿仙は着賛を済ませていた。そこ■■― 28 ―

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