鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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る。ドニの作品にはキリスト教美術の表現の神髄を見出すことはできないとはっきり前置きした上で、それでも作品にあふれる静寂と詩情、平穏な空気、さらに作品から感受される歓びの感情こそがキリスト教美術の本質であると語っている。この賛辞はまさにドニが理想とした精神を明確に表すのと同時に、後述するアール・サクレの思想にも深く通じる重要な点であるといえよう。『アール・サクレ』誌上には、ドニの表現それ自体に関する評価を見ることはほとんどできない。ここで明らかになるのは、同時代の画家たちにとって、宗教芸術はその精神性によって宗教芸術足り得ていたという点である。他方、『アール・サクレ』において、どのような芸術表現が推奨されていたのかといえば、決定的な提言はなされておらず、現代精神を反映した現代美術を聖なる芸術に導入するという主張はきわめて観念的であり、賞賛すべき具体的な表現様式があるわけではなかった。実際、掲載された図版には、レジェやマティス、シャガールなどの優れたモダンアートと並行して、今となっては無名の、プリミティフな画家たちの作品も数多く紹介されている(注18)。一貫して語られているのは、教会は聖俗をつなぐ神の家であること、ゆえに美しくなければならないこと、愛国心、そして感情を高揚させる想像力と霊感の重要性である(注19)。これらは意外にもドニの主張と一致している。いくつかの主題が好んで採り上げられたが、それらは悲劇や恐怖、親密さ、象徴的神秘、静寂などいずれも抽象的なものであった(注20)。対抗宗教改革以降の派手で説明的な表現、わかりやすさは敬遠され、見る者の精神世界に訴える素朴でシンプルな表現が好まれた。ここには瞑想の場、器としての教会という意識が強く表れている。最後に注目したいのは、抽象芸術に対する積極的な姿勢である。『アール・サクレ』には度々surnaturelleという言葉が登場する(注21)。神の力による超自然的な状態を意味するこの言葉は、自然主義に対する概念として提示されているが、主題の再現性を絶対視せず、神の存在に触れる器としての教会を主張としたアール・サクレ運動にとって、当然の結論であったかもしれない。ドニはキュビスムや抽象表現には否定的だった。それは神の言葉を伝える詩性を持すには形態の正確さや主題、適切な感情表現が不可欠であると考えたからである。これこそが両者を分かつ唯一の亀裂であり、決定的な決別となったのではないだろうか。そして同時に両者の現代美術に対する態度の違いを明白にしている。― 379 ―

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