注⑴ドニについては次の文献を基本とした。Maurice Denis, Théories 1890−1910 Du symbolism et deGauguin vers un nouvel ordre classique, Paris, 1912; Maurice Denis, Nouvelles theories sur l’artmodern, sur l’art sacré, 1914−1921, Abbeville, 1922; Maurice Denis, Histoire de l’art religieux, Paris,Flammarion, 1939; Maurice Denis, Journal Tome I−III, La Colombe, Paris, 1957−59; Ex. cat., MauriceDenis 1879−1943, Musée de Beaux-Arts, Lyon, 1994; Ex. cat., Maurice Denis, Musée d’Orsay, Paris,2006−07; Fabienne Sthal, Les decoration religieuses de Maurice Denis (1870−1943) entre les deux結論にかえてドニが宗教芸術として目指したもの、クチュリエが刷新しようとしたもの。時代と大きく乖離した当時のカトリック教会の危機を察知し、再び信仰と社会を結びつけようとする両者の問題意識は、深く重なり合っていたにもかかわらずその道は分かれてしまった。クチュリエは恩師であるドニへの尊敬と友情を生涯忘れることはなかった。「革新者」とされるクチュリエ神父とアール・サクレ運動は、フランス・カトリック、そしてドニのアトリエ・ダールサクレから生まれたものであり、その限界を内側で発見したからこそ新しい道を模索したのではないだろうか。実際、レガミー神父への手紙の中では、ドニの作品に現代的な感性が見えないこと、サン=テスプリ教会に落胆したことなどを率直に吐露している(注22)。1934年に完成したサン=テスプリ教会は、ドニにとっては自らの理想を十分に反映した満足のゆく作品であったはずだ。だがクチュリエにとっては、カトリック教会を高らかに賛美する説明的な表現であり、色彩は過剰で軽薄な装飾性に感じられたのだろう。二つの運動の運命を分けたのは、聖なる芸術におけるキュビスムそして抽象表現の許容、この一点に起因するのではないだろうか。美術史の文脈に沿って考えれば、どちらが時代に鋭敏であったのかは明白である。けれども従来のモダニスム的な視点では、大戦期におけるカトリックと芸術の問題を解き明かすには限界がある。主題と不可分な宗教芸術、ことにカトリック教会の装飾という目的において、モダニスムの文脈だけで語ることは適切とは言い切れない。抽象美術を否定したドニを旧勢、受容したクチュリエを新鋭と考えるのは早計だろう。なぜならクチュリエたちの芸術表現に対する考察は、感覚的で自らの実践を伴わないものだったからだ。それは作り手と批評家の違いでもある。ビシエール、マネシエ、さらにはクロード・ヴィアラにまでつづく教会装飾における抽象表現を考える上で、いま一度、ドニの果たした役割と限界、そして当時のキリスト教美術をめぐる状況を客観的に明らかにする必要があるだろう。― 380 ―
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