序研 究 者:関西学院大学大学院 文学研究科 研究科研究員 山 本 野理子河鍋暁斎(1831−1889)は、江戸時代末期から明治前半期にかけて活躍した「天才」とも「鬼才」とも評される絵師である。狩野派に浮世絵を折衷し、さらには古今東西あらゆる絵画の技法を習得して、特に戯画や風刺画において独創的な画境を開いた。幼少の頃、浮世絵師歌川国芳(1797−1861)に学び、のち狩野派に入門する。飯島虚心(1841−1901)によると、暁斎ははじめ狩野派絵師として独立するも、扇屋伊勢新という人に、もはや狩野派絵画で生計を立てるのは難しいからと、浮世絵を勧められ、安政5年(1858)頃より浮世絵師としての活動を開始したとのことである(注1)。さらに虚心は、狩野派免状を持つ暁斎が浮世絵を制作することについて、「(暁斎の)本意にあらざる(注2)」、「これ豈狂斎の甘心する所ならんや(注3)」と説明し、いかにも消極的な姿勢であったかのような印象を与えている。このような記述が影響しているのだろう、暁斎の幕末、特に文久年間頃において制作されたあまたの浮世絵については、従来の研究において軽んじられる傾向にある。しかしながら、筆者は、暁斎が当時の狩野派の粉本主義から解放され、多彩な才能や個性が芽生えたという点において、この時期の画業を評価し、彼の絵師人生における重要な転機であったと考えている。したがって、本研究では、文久及びその前後期の作品群を体系的かつ詳細に分析し、この時期の画業の意義を見出だしたい。ここで、この時代の暁斎や暁斎作品について言及している先行研究を以下に紹介する。本稿でも採り上げるが、この時期の代表作のひとつ「御上洛東海道」の暁斎作品については、吉田漱著「東京国立博物館所蔵「御上洛東海道」中の暁斎作品について」(注4)と、望月宏充著「周麿筆『東海道名所之内田子浦蛇松』について」(注5)が早い。この時期の号については、鈴木浩平著「北斎と暁斎の「狂」について」(注6)と、吉田漱著「二人いた周麿」(注7)において言及されている。この時期の歌川派絵師との関係については、新藤茂著「合筆作品における浮世絵師間の位相〈暁斎と国周と三代豊国と〉」(注8)及び、アンドレアス・マークス著“When the shogun travels to Kyoto”(注9)が挙げられよう。― 384 ― 河鍋暁斎の文久年間の画業について
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