以上のような先行研究を踏まえ、新たな分析と考察を試みたいが、まず前提として、本研究テーマの文久年間以前の画業から概説しなければならないだろう。1.浮世絵から狩野派へ、狩野派から浮世絵へまず、暁斎が幼少期に国芳に学んだことは既に述べた。その期間は天保8年(1837)から10年(1839)まで、年齢7歳から10歳頃であった。本格的な画道修業というより、手習い程度だったのだろう。のち天保11年(1840)に、狩野派の前村洞和(?−1853)に入門、次いで同じく狩野派の狩野洞白(?−1851)に入門、以降、狩野派の画道に入る。狩野派修業中の暁斎18歳の頃、小銭稼ぎに雑貨商が仕入れた紙その後、暁斎は、嘉永2年(1849)、19歳で狩野派の免状と、画号「狩野洞郁陳之」を与えられた。翌年、館林藩秋元家の絵師坪山洞山(?−1855)の養子となるも、遊蕩生活を納められず、嘉永5年(1852)に離縁となる。この間、狩野派絵師として、筑前福岡藩の藩主黒田氏上屋敷において、養父洞山、その他の絵師とともに、襖絵などを制作した。坪山家を去ったのち、しばし流浪の身となる。以前のように雑貨商の仕入れ物を描いて小銭を得、彼等の家に寄宿しながら遊蕩に明け暮れた。一方、画業に関しては日々精進を怠らず、土佐・光琳・四条・円山・漢画、浮世絵など古今様々な画流の習得に努め、のちの縦横とも評される画風の基盤を築いていった。安政4年(1857)頃、琳派絵師の鈴木其一(1796−1858)の次女お清と結婚し、これを契機に独立し、河鍋姓を名乗り、本郷大根畑に住居を構えた(注10)。同時期、先述の通り、扇屋伊勢新の勧めにより浮世絵を描き始め、「惺々狂斎」と号する(注11)。この頃の画業で、年代の明らかなものはほとんど残されていない。おそらく、伊勢新の元で扇を制作したり、付き合いのある雑貨商の仕入れ物を描いたりして、生計を立てていたのだろう。一方、安政6年(1859)の芝増上寺修復に、暁斎も狩野派絵師として加わっている。独立後の細々とした生活を考えると大変名誉なことではあったが、少なくとも彼の創― 385 ―■■鳶絵や羽子板絵を描いたという。これらは、消耗品の玩具類であったため、通俗的な画題、すなわち浮世絵風の画題が求められた。修業中とはいえ狩野派の者が、浮世絵画風を描くという行為は本来、恥辱あるいは法度であっただろうが、幼少期に国芳に学んだ暁斎にとって、さほど抵抗はなかったらしい。この経験は、暁斎画後に開花させる軽妙洒脱な画風の素地として活かされたであろう。
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