造力が発揮できる場ではなかったと言える。芝増上寺修復の翌年、万延元年(1860)において暁斎は、舶来の虎を描いた大判錦絵を版元恵比須屋庄七から4枚刊行している。これらの図中の文章は、全て戯作者の仮名垣魯文(1829−1894)が担当している。実際に渡来したのは豹で、5月に横浜港へ到着し、7月には両国橋西詰で見世物興行が行われている。「舶来虎豹幼絵説」と題するものを除き、暁斎描く虎の毛皮には斑点があり、明らかに豹を描いたものであるが、当時、豹は虎の雌であると広く誤解されており、このため、題名や画中の文章には「虎」と記されている(注12)。「舶来虎豹幼絵説」は、虎と豹の違いが民間に広まり出したのだろう、その違いを説いている。翌文久元年(1861)、今度は本物の虎が渡来した際、暁斎と魯文は供に横浜に赴き、生きたままの犬を食べる虎をその場で写生し、錦絵1枚を刊行している。ここに、彼の報道的絵画制作への関心の高まりを見出だせよう。実は暁斎と魯文の親交は、安政2年(1855)に遡る。当時、暁斎は蒔絵の下絵制作を生業としていた。この年の10月2日、江戸を襲った大地震の際に出された瓦版風の錦絵「老なまづ」〔図1〕で初めて魯文と組んでいる。上記の万延元年から文久元年にかけて制作した舶来の虎の錦絵計5枚は、見世物絵と呼ばれる類のものであった。見世物絵は、本来、版を重ねない、間に合わせの急ぎ仕事である。しかしながら暁斎は、このような仕事であれども疎かにはせず、また、粉本にも頼らず、写生による写実表現を試みた。ここに、徹底的に描写の正確性を追究する暁斎の性分が見いだせよう。これらの虎の見世物絵で暁斎が使用した画号は、「狂斎」「雷酔坊猩々菴」「猩々坊」である。「狂」の字については、鈴木浩平氏が、前出の論文において既に述べられているように、「戯れ」の意味である(注13)。転じて戯画を描く者となる。また、「猩々」は想像上の怪獣であり、大酒家の別名でもある。「雷酔」は雷鳴の響き「ドロドロ」と「泥々」すなわち泥酔を表す。どちらも酒豪の暁斎らしい画号である。2.御上洛東海道少しずつ、浮世絵界との関わりを強めていく暁斎であったが、万延から文久2年頃にかけての作品は希少である。生活も楽ではなかったことが想像されるが、文久3年に入ると契機が訪れる。この年2月から6月にかけて行われた将軍徳川家茂(1846−1866)の上洛に、世間の関心が集まっていた。それを受け、浮世絵師達は、東海道を上って行く将軍一行の姿を、錦絵の一様式として定着している「東海道五十三次」で■■■■― 386 ―
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