あらわそうとした。それが、文久3年3月から7月頃にかけて刊行された、通称「御上洛東海道」(大判錦絵揃物)である(注14)。総数162枚からなる大作で、16の絵師と21の版元が携わっている。その他、梅素亭玄魚(1817−1880)作の目録1枚が付されている。各図、東海道名所の中に武家の行列が描かれているが、将軍一行と明示しない。これは筆禍を避けるためで、当時の人々が見たら、すぐさま将軍の上洛絵と分かるように工夫されている。歌川派の絵師達に交じり、暁斎もこのシリーズに参加している。数の上では、東海道ものを画業の主軸とする二代歌川広重(1828−1869)が最多の33枚、次点は暁斎の28枚である。浮世絵界での暁斎の実績の浅さを考慮すると存外に多い。とはいえ、シリーズ刊行開始の4月改印の作は、他の絵師含めたシリーズ全体では一番刊行数が多いが、暁斎に限ってはわずか3枚である。一方、5月は17枚と暁斎への依頼が急増する。4月分が少ないのは、5枚組の見世物絵「天竺渡来大評判 象の戯遊」(恵比須屋庄七版・大判錦絵揃物)の制作があったからと考えることもできる。しかしながら、なぜ、5月に入ってから、これ程にも急激に画稿依頼が増えたのだろうか。この辺りの事情を探るべく、作品を刊行の経過に沿って分析しながら考察したい。4月改印の「興津」(福岡屋忠兵衛版)〔図2〕では、雨の興津川渡る座頭一家が描かれている。先頭の子供が落した杖が流されるのを、雨宿りの旅人や竹鞭を振りかざした侍が嘲笑する。同月改印の「宮熱田社」(上州屋金蔵版)は、竹原春泉斎画の「5月5日熱田鎮皇門楼上神幸之祭式」(秋里籬島編『東海道名所図会』1797年刊・6巻)から図様を借用している。入京直前、伊勢奉幣使との邂逅を避けるため、予定の休憩を急遽取り止めるという騒動があった。この図は、伊勢神宮と同じく勅祭社である熱田神社に託して、その一件を示唆しているのであろう。これらに見られる風刺性や報道性は、シリーズ刊行当初においては、未だ筆禍の恐れがあり、他の絵師達が躊躇していた部分である。しかしながら、このような暁斎の画に版元達は惹き付けられたようで、先述の通り、翌5月には一気に17枚という依頼が、暁斎に舞い込んだ。5月改印の「高縄牛ご屋」(大黒屋金之助版)〔図3〕に描かれる、威風堂々たる将軍一行と平伏の民衆、一方の丸裸で覗き見る子供達との対比が滑稽である。同5月改印の「秋葉山」(大黒屋金之助版)〔図4〕でも、整然と進む将軍一行と、天狗達の酒宴が対照的に描かれている。踊る天狗の扇の紋様は「洞」と読め、「洞郁」すなわち暁斎自身の姿であろう。― 387 ―
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