ところで、5月に入って大量に依頼のあった暁斎ではあるが、東海道筋のめぼしい名所は、既に他の絵師によって描かれてしまっている。二番煎じでは飽きられる。策として、東海道を脱して上方に画題を求め、将軍一行の動向に注目した。5月改印「京都等持院足利十五代木像之図」(大黒屋金之助版)〔図5〕は、同年2月、将軍上洛を目前に控えた京で起こった「足利氏木像梟首事件」を示唆している。尊攘派が足利三氏の木像の首を晒して、幕政批判・倒幕の意を表明した事件である。この幕府にとって不名誉な出来事を出版することは、筆禍の恐れもあっただろう。また、暁斎はこのシリーズ制作を始めた4月より、幼名「周三郎」に因んだ「周麿」という号を使用している。これが、暁斎の意志によるものかは判然としない。しかし同5月の「御能拝見之図」(大黒屋金之助版)〔図6〕では、町入能の様子が描かれている。演目は読本や武者絵などで大衆にも流布していた「土蜘蛛」である。同5月の他の絵師との合筆2種「御能拝見朝番」(大黒屋金之助版)〔図7〕と「御能拝見昼番」(大黒屋金之助版)〔図8〕も、町入能に関連するが、こちらは見終わった後の町人達を描く。「天下泰平」の万灯を掲げ、騒がしく踊り歩く肩衣袴姿の町人達が、暁斎担当箇所である。しかしながら、将軍の滞京・滞坂中に、町入能が催されたという記録はなく、おそらく、京都市中の町人に銀5千貫を頒賜したことを示唆しているのだろう(注15)。徳川幕府に懐柔された京の町人を痛烈に風刺している。同5月の、「兵庫築嶋寺」(大黒屋金之助版)は、前月の4月23日に執り行われた、将軍の摂海海防設備視察を描いている。摂州兵庫湊の築嶋寺はこの度の視察とは無関係であるが、人々の身代わりに人身御供となった少年松王の伝説で知られ、鎮魂のため投げ入れた経石によって埋め立てられた土地と伝えられる。このことは、埋め立て地、すなわち将軍の台場視察を示唆している。海防設備視察という軍事的内容を、知恵を絞って抵触ぎりぎりの線で描く。暁斎の鋭敏な才知は、大衆を唸らせたであろう。シリーズの刊行枚数が急速に減少してきた6月改印の「浪速天保山子供力士照覧」(大黒屋金之助版)〔図9〕には、将軍が子供相撲を観覧する様子が描かれている。このような事実もまた記録上見出だせない。おそらく、この図には、現地での2つの出来事が込められている。ひとつは、将軍上洛の警備を担当した新撰組が、6月3日に大坂力士と起こした乱闘事件を、もうひとつは、これまた新撰組が、6月13日に蒸気船で帰府する将軍を天保山まで見送ったことを示唆しているのだろう。これらの出来事を、暁斎はひょうきんかつ躍動感に満ちた子供相撲に託し、報道している。また、上方での出来事が異常なまでの迅速さで錦絵にあらわされているが、前述の鯰絵・見世物絵での経験が活かされていよう。― 388 ―
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