鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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で正月9日に鳳林承章は賛をしたため、正月10日にそれを次の着賛者である雪岑梵崟に送った。また正月21日には、最岳元良が鳳林承章の賛文の写しを所望しているというのでそれを送った。これらの記録は、いま問題としている山本友我「瀟湘八景図」に直接関係がないように思える。江戸の最岳元良が企画した狩野安信「瀟湘八景図」の記録だからである。しかし、ここではその着賛者である八人の五山僧に注目したい。実は、これから確認するように、その全てが山本友我「瀟湘八景図」の着賛者なのである。『隔蓂記』の確認を続けたい。山本友我「瀟湘八景図」の成立経緯が、これ以降の記録から具体的に分かる。鳳林承章の行動は早かった。正保3年2月20日、鳳林承章は山本友我に絵絹を渡し、八景之絵の作画を依頼した。そして、4月4日には友我が出来上がった絵を持参してきた。友我は約一ヶ月半で作画したことになる。その後、一人目の賛文を得るため鳳林承章はこの絵を江戸の最岳元良に送ったようだ。5月14日、最岳元良の賛文がしたためられた八景之絵が、平賀清兵衛なる人物より鳳林承章のもとに届けられた。5月18日、鳳林承章は御礼のため平賀清兵衛のもとに赴き、その後すぐに平骨扇子壹柄を手土産にして三江紹益のもとに向かった。5月20日には三江紹益の賛文がしたためられ、鳳林承章のもとに戻ってきた。6月25日、鳳林承章は円扇壹柄と海苔壹袋を手土産にして玄英寿洪のもとに向かうが、玄英寿洪は東武つまり江戸に赴いていたため不在だった。そこで、鳳林承章は洞叔寿仙のもとに向かい、八景之絵を渡した。記録はないが、洞叔寿仙は着賛を済ませ、それを鳳林承章に戻したようだ。そして7月12日、鳳林承章が着賛する。その後の7月21日、鳳林承章は絵を持参して雪岑梵崟のもとに向かい、着賛を依頼した。記録はないが、すぐに雪岑梵崟は着賛を済ませたようだ。7月28日、鳳林承章は団扇壹柄を手土産にして、周南円旦のもとに赴いた。対応したのは天沢円育であり、鳳林承章はこれまでの着賛経緯をつぶさに説明した。なお、ここで注目したいのは、この着賛が「彦公八景図之讃之義」つまり彦公(文雅慶彦)の八景図へのものだと『隔蓂記』に記されている点である。このことについては後述したい。8月3日、鳳林承章のもとに周南円旦の賛文がしたためられた絵が届いた。そして10月22日、鳳林承章は細川全隆(1570〜1658)の宿所に赴き、玄英寿洪に面会した。去る6月25日にも鳳林承章は玄英寿洪を訪ねているが、江戸に赴いていたため着賛してもらえなかったからである。そこで改めて着賛を依頼した訳である。10月29日には― 29 ―

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