ながら、「麿」という字が一般的に幼名に多いことから、幼年の周三郎、すなわち故国芳の門人であることの表明なのかもしれない。この「御上洛東海道」において頭角を現した暁斎は、大判錦絵三枚続の画稿を次々と任されるのである。時事報道に一風変わった趣向を加える暁斎の手腕に期待がかかったのだろう。文久3年6月改印の「出来秋満作稲荷まうで」(若狭屋与市版)と、同年7月改印の「海上安全萬代寿」(大黒屋金之助版)〔図10〕は、どちらも将軍上洛に奇瑞を現したとして当時大流行した千代田稲荷に関する風刺画を、滑稽かつ大胆に描き表している。また同年8月改印の「蒙古賊舩退治之図」(藤岡屋慶次郎版)では、同年起こった馬関戦争を、激しい筆致で描き、激情的な描写を試みている。3.江戸の花名勝会「御上洛東海道」が刊行された文久3年前後において、暁斎はもうひとつの合作に参加していた。それは、文久2年12月から慶応元年(1865)正月にかけて刊行された「江戸の花名勝会」(加藤屋清兵衛版・大判錦絵揃物)という、三代歌川豊国(1786−1864)の役者絵を中心とした貼交絵のシリーズ作品である。参加絵師は三代豊国門、国芳及び初代広重(1797−1858)門、ほか■飾北斎(1760−1849)門、鳥居派、写し絵師など、流派を超えた夢の共演であった。「江戸の花」とは、町火消「いろは四十八組」を意味し、彼らの各担当地区に因んだ役者や名所・名物を1枚の中に貼り交ぜている。番外編も合わせると、管見では70枚と目録1枚が確認されている。うち、暁斎が手掛けたのは17枚である。文久2年12月の刊行開始から暁斎に画稿依頼があったが、当初はありきたりの風景・静物などを描き、三代豊国描く役者絵の脇役に徹した。しかしながら、文久3年夏頃の作から、画趣に変化が生じてくる。同年8月改印の「わ(岩井粂三郎)」〔図11〕の鯉の表情や、「請地」〔図12〕の丁稚の尻もち姿など滑稽味を帯びてくる。また、翌月9月改印の「百」〔図13〕に描かれた本の中に八丁堀に因んだ弥次喜多の挿絵を忍ばせ、人々の意表を突く。同年11月改印の「さ」〔図14〕では渡辺綱伝説の鬼、「万」〔図15〕では皿屋敷のお菊を描き、怪奇趣味に傾倒する。羅生門の鬼は、豊国描く綱が持つ金札の上に乗り、今にも襲わんばかりである。お菊の亡霊は三代豊国の画中から煙のように上昇し、当時流行の芸能「写し絵」の趣向で描かれた番衆を脅す。貼り交ぜられた個々の画が、互いに作用しあう演出上の工夫がなされている。同11月改印の「お」、「く」、「や」、「ま」〔図16〕は4枚組構成である。全て「四谷― 389 ―
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