鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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怪談」が画題となっており、「や」の麴町平川神社の景と、「ま」のお岩の像は暁斎の画である。「く」における三代豊国画のお岩よりも、遥かに凄惨を極める形相には度肝を抜かれる。細長くうねりながら横断するもう一体のお岩も、暁斎の筆であろう。4枚並べないと分からない仕掛けになっている。なお、同11月改印の「た」〔図17〕で暁斎は、「狂斎」と「洞郁」2つの号を使い分けているが、年代が明確な錦絵作品における「洞郁」署名の早い使用例である。ここで狩野派の号を用いたのは、彼が狩野派としての自覚を未だに失っていないことを表明しているかのようである。前出「お」「く」「や」「ま」での、浮遊霊が4枚組を繋ぐという奇抜な趣向は、同年12月改印の「ま(尾上多見蔵)」、「ま(市川市蔵)」、「し」〔図18〕の3枚組でも採用され、3枚を並べると1本の凧糸が見えてくる仕掛けになっている。凧糸には、暁斎が描く三河万歳の太夫の、風に飛ばされた烏帽子が引っ掛かっている。その上部には、曲亭馬琴(1767−1848)作『夢想兵衛胡蝶物語』(1810年刊・9冊)の主人公夢想兵衛が描かれ、三代豊国画の奴凧兵衛と呼応し凧尽しの趣向となっている(注16)。従来の貼交絵にはない、何枚かで一揃いという演出的な構成へのこだわりに暁斎の機知を見出せよう。ところで、この図には「春海」という号が使われている。使用例は極めて少ないが、本稿では2例紹介したい。ひとつは同シリーズより、文久3年8月改印の「わ(沢村田之助)」〔図19〕に押された印の「春海」号である。囲い枠の魚意匠の口を開いた様子がどことなく鯉を彷彿させる。このことは、狩野派修業時代、写生した鯉が金色の気を吐くという逸話を想起させよう(注17)。鯉は無事放生されたのであるが、以来、暁斎にとって神秘的な存在であった。もうひとつは、同年から慶応2年(1866)頃の作『狂斎百図』(大蔵孫兵衛版・小判錦絵画帖三冊)の袋絵「(富士に龍)」〔図20〕に押された、同じ魚(鯉)形「春海」印である。この印はのち、暁斎の別号のひとつ「畑狂者」の囲い枠の意匠として継承されている〔図21〕。「春」と「海」と言えば、俳人であり画家でもある与謝蕪村(1716−1783)の句「春の海終日のたりのたりかな」が連想される。蕪村はまた、酔余の席画を描いた事でも知られ、このような作画姿勢に共鳴した暁斎の洒落であろう。まとめここまで、暁斎の文久年間における画業を中心に、分析・考察を行なってきた。■■■■― 390 ―

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