研 究 者:公益財団法人根津美術館 学芸員 多比羅 菜美子はじめに柴田是真(以下、是真)は、文化4年(1807)江戸両国に生まれ、明治24年(1891)に85歳で亡くなるまで制作を続けた蒔絵師であり、画家である。11歳で印籠蒔絵師の古満寛斎(初代)に入門、16歳で四条派の画家である鈴木南嶺に入門し、蒔絵と絵画の技術を修得した。のちに24歳で京へ遊学し、円山派の岡本豊彦にも師事し、画業の研鑽を積んだ。生涯現役で、長命で勤勉な職人気質のため、残された作品も多い。蒔絵に限らず工芸の分野において、一人の作家の制作の変遷を現存する作品からたどることのできる作家は、きわめて少ない。これは、工芸作品が無名の工人によって作られてきた歴史が長いことと、作者の名前が知られるようになった近世以降においても、伝存する作品と記録の両方が備わり、事績が詳細に知られることは稀なためである。そうした意味で、是真は同時代の蒔絵師のなかでも活動を詳細に追うことのできる重要な作家の一人である。近年、是真の詳細な資料探索が行われており(注1)、是真の制作活動の記録を手掛りとして、当時の工芸について考える研究もある(注2)。本研究では、是真の漆工の作品を中心として、その顧客をあわせてとりあげることによって、作品の制作に大きな影響を与えたであろう需要者側の要望と、それに対して是真がどのように応えたのかについて、是真の生涯に沿ってみてゆくこととしたい。是真の顧客と作品1.江戸の商人是真は、文化4年(1807)江戸両国に、宮彫師であった父・柴田市五郎と、嚢物商柴田清七の娘・升との間に、長男(亀太郎、のちに順蔵と称する)として生まれた。是真は、文化14年(1817)に11歳で印籠蒔絵師の古満寛斎(初代)に入門した。師の古満寛斎(初代)は、徳川将軍家の御抱蒔絵師古満家の流れをくむ古満派の蒔絵師で、謹直な蒔絵の技で知られた名工である。また、息子である二代寛斎に、懇意にしていた谷文晁の娘を娶らせるなど、文化的な交流もある人物であった。是真は、蒔絵の修練の一環として、16歳で四条派の画家である鈴木南嶺に入門し、― 396 ― 柴田是真における受注の研究─漆工品を中心に─
元のページ ../index.html#407