鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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絵画も学んだ。21歳で蒔絵師として独立ののち、24歳で京へ遊学し、円山派の岡本豊彦に師事し、研鑽を積んだ。京でもすぐれた画技が注目されたとみえ、妙心寺の塔頭である大雄院には是真が描いたとされる障壁画が伝わっている。京から戻った天保2年(1831)、25歳の年に絵画の師、鈴木南嶺から「是真」の号を与えられ、浅草に居を構えて「対柳居」と称した。それまで是真は「令哉」と号していたが、令哉銘の作品はきわめて少ない。筆者は未見であるが令哉銘の印籠が4点伝存しているという(注3)。独立当時の是真は、画技の研鑽にも力を入れつつ、師寛斎と同じく印籠蒔絵師としてスタートしたことがうかがえる。しかしながら、蒔絵師としての是真の評判は、絵師としての評判よりも後のことといわれている。絵師として世に出たのは、天保11年(1840)是真34歳の時に制作した絵馬「鬼女図」(王子稲荷蔵)で、鬼女の真に迫った描写による。蒔絵師としての是真の評価が絵画よりも遅れた理由は、二つあると思われる。一つは、天保12年(1841)から始まった天保の改革による奢侈・贅沢禁止令がある。是真も出入りしていた嚢物商丸利が所払となるなど、印籠をはじめとする高級小間物に対しても取り締まりの手が入った時代となった。是真を含む蒔絵師達は、おしなべて金銀、珊瑚など高級な素材を用いる奢侈品を制作していたといってよく、そうした高級品を欲していた需要者層も自粛して注文が減り、同時に高級品を賞玩することも差し控えられたことであろう。二つめは、蒔絵という工芸品がもつ性格である。絵画が鑑賞を目的としているのに対し、蒔絵は印籠などの装飾品や硯箱などの調度品にかぎらず、持主が使用することを目的としているため、絵画に較べれば、もともと他者の目に触れる機会が少ないものである。そのため、工芸品の作者が評価を得るには、制作された作品の質だけでなく、それを扱う業者や注文を出す顧客の質の高さも重要である。そうした作品の質と流通環境が整ってはじめて、工芸の作家は評価されるに至るのではあるまいか。是真に関してみれば、是真銘の制作年代が知られる最も早い作品に、弘化4年(1847)に制作された「百華香蒔絵印籠」(個人蔵)〔図1〕がある。黒蝋色塗の地に、牡丹、梅、桃、水仙、菜の花などの花々が盛られた吊香炉があらわされている。厚く浮彫りにした白蝶貝の牡丹をはじめ、ふんだんに豪華かつ精妙な技術で作られた作品である。これは、日本橋の紙商榛原の注文品であった。この作品からは、絵師として世に知られた後に天保の改革に遭い、何とかその間にも顧客を獲得し続け、改革が中止されたのちには、日本橋の富商の注文を受けるまでになった是真の制作活動の軌跡がうかがえる。是真が質・顧客ともに備えた蒔絵師として世に知られる存在となった― 397 ―

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