ことを示す代表作の一つといえよう。話はもどるが、天保の改革の間に是真が身につけたのが、青銅塗や青海波塗をはじめとする変塗の技術である。長男令哉の回顧によれば、弘化年間(1844〜1847)に幕府用達町人・松本兵四郎から脇差の鞘に青海波塗を施すよう依頼があった(注4)。青海波塗は、元禄年間(1688〜1704)に青海勘七という塗師が作り出して以来、技が途絶えていた変塗の一種で、粘性の高い漆を櫛歯で掻いて波文をあらわす技法である。本来、刀の鞘塗りは、鞘塗師という蒔絵師とは別の職人が行うことが多いが、是真は漆工の細かい職分にこだわらずに仕事を受け、この技法を復興した。また、是真は、金銀は国家の至宝である。妄りに塗抹すべきものではない(注5)、として、色漆粉など金銀以外の材料による蒔絵も研究していた。その成果の一つが、のちに是真が「青銅塗」と名付けた変塗で、炭粉、石黄などの黄色顔料、プルシアンブルーなどの青色顔料を混ぜた青銅粉と称する粉を蒔いて、あたかも青銅(ブロンズ)のような質感を模した変塗である。是真は、先述の天保の改革によって所払にあい、店の移転を余儀なくされた嚢物商丸利こと丸屋利兵衛のために、この青銅塗を用いた品々を作ったという(注6)。是真の作品の多くにみられる変塗を多用した作品の数々は、天保の改革の頃に培われた技術が土台となっていることがわかる。また、変塗の技術を研究することになった発端が、時勢の変化による奢侈の禁止と、それに応じた品を必要とした顧客層からの需要に応えた結果だったことがうかがえるエピソードである。このような技法研究と作品による評判が、先述の弘化4年(1847)「百華香蒔絵印籠」の受注につながったことは想像に難くない。そうした意味で天保の改革は、是真の逆境においても工夫することによって顧客を満足させ、かつ金銀など希少な材料の美感に寄らない作品を生み出そうとする姿勢が形成される出来事であったといえるのではないだろうか。日本橋を中心とする商家の顧客は多く、榛原のほか、河鍋暁斎のパトロンでもあった日本橋の小間物問屋・勝田五兵衛、小間物商・大坂屋 林庄八、菓子舗・榮太樓 細田安兵衛、下谷の懐石茶屋・松源楼 小糸源七など、是真と商売上つながりのあった小間物商以外にも広がっていた。彼らの多くは、維新後も引き続き是真を支援し続けている。こうした顧客が是真を愛好するきっかけはさまざまだったようである。一例としては、茶の湯を通した交遊があげられる。是真は、文政11年(1828)22歳のときに宗編流時習軒吉田宗意に入門し、茶の湯の心得があった。顧客の一人、榮太樓の細田家も■■■■■― 398 ―
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