玄英寿洪の賛文も記された。ここまでをまとめてみると、この時点で山本友我「瀟湘八景図」には最岳元良、三江紹益、洞叔寿仙、鳳林承章、雪岑梵崟、周南円旦、玄英寿洪の七人の賛文がしたためられたことになる。更に『隔蓂記』を確認したいが、なぜか約一年半、この山本友我「瀟湘八景図」の記録が完全に途絶えてしまう。次に『隔蓂記』に記録が出てくるのは、慶安元年(1648)5月14日である。この日、鳳林承章は十二本骨扇子壹柄を手土産として建仁寺十如院の鈞天永洪のもとに赴き、文雅慶彦の八景図への着賛を依頼した。記録はないが、すぐに鈞天永洪は着賛したようだ。これで八つの賛文が揃ったことになる。そして6月23日、鳳林承章のもとに文雅慶彦がやって来た。昕叔顕晫の跋文を得たので、鳳林承章に見せに来たのである。9月18日には、この八景図の表具も出来上がった。以上が『隔蓂記』から分かる山本友我「瀟湘八景図」の成立経緯である。なお、〔別表〕に山本友我「瀟湘八景図」に記された賛文と跋文をまとめておいた。ご確認いただきたい(注7)。これらの記録から、いくつかの興味深い事実を引き出すことができそうだ。先ず注目したいのは制作動機である。鳳林承章は山本友我に「瀟湘八景図」を描かせる直前、最岳元良が企画した狩野安信「瀟湘八景図」に着賛していた。そして、その狩野安信「瀟湘八景図」の着賛者八人は、全てが山本友我「瀟湘八景図」の着賛者だった。このことを踏まえるなら、山本友我「瀟湘八景図」は狩野安信「瀟湘八景図」に触発されたものだった可能性が高い。残念ながら、鳳林承章らが着賛した狩野安信「瀟湘八景図」は確認できなかった。しかし、安信は「瀟湘八景図」(聖衆来迎寺)のような作品を描いている。また、安信の兄・狩野探幽(1602〜74)も多くの瀟湘八景図を描いている(注8)。今後、鳳林承章らが着賛した狩野安信「瀟湘八景図」が見つかれば、友我が安信の「瀟湘八景図」をどのように作画に生かしたのかも明らかになるはずである。作品の出現を待ちたい。また、制作動機については『隔蓂記』に注目したい記述があった。正保3年(1646)7月28日条に「彦公八景図之讃之義」、つまり山本友我「瀟湘八景図」が文雅慶彦のための八景図だと明記されていた。そのためなのだろう、慶安元年(1648)6月23日条から分かるように、最後に昕叔顕晫の跋文をもらったのも文雅慶彦だった。― 30 ―
元のページ ../index.html#41