鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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武家の顧客として、是真に影響を及ぼしたと考えられているのは、佐賀鍋島家である(注8)。同家には、小さいながらも金銀の蒔絵を駆使した「蕗茗荷蒔絵琴柱箱」(鍋島報效会蔵)〔図7〕が伝来している。是真の作品を愛好したのは、佐賀藩10代藩主・直正(閑叟・1815〜1871)である。幕末・明治期に佐賀藩を守った一流の政治家であった直正は、一流の文化人でもあり、自身の近習・古川松根(1813〜1871)の絵画習得を通じて是真と交友をもった(注9)。こうした交流のためか、佐賀城下では藩主や松根と親交のあった家で是真の作品を蔵した作例〔図8〕があるほか、是真の作風に倣った蒔絵師の手になる作品もみられる(注10)。鍋島家が是真に与えた影響は、直正と松根による文化的な交友だけではない。人材の育成に長けた直正の下で頭角をあらわして佐賀の七賢人の一人といわれ、11代直大(1846〜1921)に仕えて維新を迎えた佐野常民(1822〜1902)である。維新後も是真を支え続けた顧客・鍋島家に連なる人物の一人である。佐野は佐賀藩士の家に生まれ、蘭学、医学を修めたのち、藩の精煉方や海軍伝習所で蒸気機関や造船術などの研究にあたった。慶応3年(1867)にパリで開催された万国博覧会に佐賀藩団長として渡欧し、西欧の技術や文化に対する見識を広げた。そうした経験が買われ、維新後、常民は明治政府の要職を歴任する。日本海軍の創設や洋式灯台建設の推進といった欧米の制度や技術を取り入れることに尽力した。明治6年(1873)のウィーン万国博覧会には、佐野は明治政府の副総裁として再び渡欧した。ウィーン万国博覧会に出品する作品を是真に依頼し、彼の代表作である「富士田子浦図蒔絵額」(福富太郎コレクション資料室蔵)が作られた。当時すでに是真は斯界の第一人者であったが、それゆえに還暦を過ぎて高齢でもあった。制作の依嘱にあたり、常民には佐賀藩時代からの是真への揺るぎない評価と信頼があったのではないかと推測される。常民は、このウィーン行きで日本の伝統的な芸術や文化のすぐれていることを痛感し、それらを振興するべく内国勧業博覧会を開催することに尽力した。明治14年(1881)の第二回内国博覧会には、是真は常民から前出の「扇面蒔絵書棚」(鹿苑寺蔵)の制作を依頼されている。さらには、常民が会頭をつとめた「龍池会」改め日本美術協会による美術展覧会にも是真は「漆絵田家早春図額」(月うさぎの里美術館蔵)を出品している。このように常民は、是真にとって従来の顧客のような関わり方ではなく、博覧会という国家事業の重責を是真に担わせるべく重要な局面において是真を重用した。是真にとっても、大作であり代表作を制作する機会と意欲をもたらした人物だったといえよう。― 400 ―

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