また、是真が発明した紙に漆で絵を描く「漆絵」を、画面が固定された額装から、画面が巻き取ることによって動く軸装においても断文を生じないよう改良するきっかけとなる発言をした工芸研究家・塩田真(1837〜1917)も、塩田が常民とともにウィーン万国博覧会に携わっていたことからの付き合いである。明治期に是真が請けた大作の注文先としては、博覧会のほか、宮内省や外務省などの皇室・官庁の御用がある。漆工品ではないが、「五位鷺に水葵図杉戸絵」(宮内庁蔵)や「明治宮殿千種間天井画下絵」(東京藝術大学大学美術館蔵)は、明治宮殿造営に際して制作されたものとしてよく知られている。是真の宮内省御用は、明治2年(1869)に椅子30脚の制作を依嘱されたことから始まる。明治5年(1872)には、彫金の加納夏雄とともに明治天皇の「菊唐草蒔絵鞭」の制作を拝命した。さらに同年、外務省より浜離宮延遼殿の食堂壁画の制作も依頼されている。関東における四条派の画家として、蒔絵の第一人者として世間でも知られていた是真であるが、明治政府内にも先述の佐野常民のほか、外務省掛として在イタリア王国特命全権公使となった旧鍋島藩主・鍋島直大侯爵など、少なからず旧幕時代より是真に関わりのある人物がいた。明治期以降も是真に華々しい活躍の機会が与えられたのは、旧幕時代から続く顧客や交友が発展した賜物であったことがうかがわれるのである。おわりに是真の制作活動と顧客との関係についてみてきた。是真の作品に特徴的な変塗の多用と、金銀など希少材料の使用によらない洗練された意匠と技法の多様さが、天保の改革の奢侈禁止令による受注困難の時期に培われたことがうかがわれた。この頃に顧客も獲得したとみられ、自分を取り巻く環境が逆境にある時に、それを打開すべく技術研究と工夫によって時流にあった顧客の需要を満たしたことが、蒔絵師としての高い評価につながったのではないかと考えられる。是真の顧客層は、身分にかかわらず当時の富裕層に存在しており、顧客の在所も江戸にかぎらず、江戸と行き来する財力がある者には手に入れる機会があったことがわかった。また顧客達の大半は、国の体制が変った明治維新後も家を保った者が多かったようで、明治22年(1889)に催された「絵画蒔絵展覧会」の出品目録には、維新以前からの顧客の名が見受けられる(注11)。むしろ、是真の顧客が代替りし、身上に変化があったのは、大正から第二次世界大戦前にかけてであったようで、昭和15年(1940)― 401 ―
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