鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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研 究 者:豊島区文化デザイン課 ミュージアム開設準備学芸グループ 学芸員はじめに「池袋モンパルナス」は、広範な意味を許容する茫洋とした言葉である。この言葉が使い始められた1930年代当時は、終戦前の時期にかけて、池袋周辺のアトリエ村を中心とする作家たちのエネルギーが渦巻く空間を指して使われた。詩人で絵も描いた小熊秀雄が、第一回池袋美術家クラブ展覧会に寄せた「池袋美術家倶楽部結成を祝ひて」(注1)の中で使っている言葉である。雑多な人々が集まったこの地を、小熊は「(前略)芸術の殖民地池袋モンパルナスの画家は/党派を越へて斯くのごとく集る/これまた画家の進歩性の一つなり」と言った。アトリエ付き貸家群が何カ所もあった池袋周辺─池袋だけではなく、板橋、練馬にもわたっていた─には、多くの芸術家が集まっていたのである。しかし現在に至っては、街の活性化(注2)のために使われる一方で前衛的志向の強い美術傾向の集団に対して使われることが多いと言えるだろう。ここでは、当初の意味を離れて、巨大化、肥大化する池袋モンパルナスの実像に近づく(注3)ことを目的とする。そのために、何を専門とするどのような所属の作家が、池袋周辺に居住していたのかを住所表示から抽出した。この表から指摘できることとあわせ、党派を越えて集っていた芸術家たちが、今は前衛に限定されたように扱われるようになっている背景を確認する。また、特にジャーナリズムとの関係という点では、芸術作品を制作する人々だけでなく、芸術に関するジャーナリズムに関わる人々がこの地域に居住していたことに注目し、当時の美術ジャーナリズムの中で大きな力を持った日本美術学院(および中央美術社)について考察を加える。居住地・池袋ここでは、池袋モンパルナスに行き交ったであろう芸術家たちが、どのような場所に住んでいたのか、その住所と、関係していた集団について典拠つきのデータ化を図った。現在は個人情報として決して活字化されることのない住所は、『日本美術年鑑』の日本美術家人名という欄によって知ることができる。そもそも『日本美術年鑑』では、基本的には編集部から作家に対して調査を行い、返答があった場合はそれを採録― 406 ―小 林 未央子 池袋モンパルナス草創期の基礎的研究─美術ジャーナリズムを中心に─

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