しているようである。以下に言及する①と②にはそのような記載がある(注4)。③では「本邦に於て、其の作品を公表して居る美術家は非常に多数であつて、記載の範囲を拡大する時は際限が無く、茲には美術家として一の独立した地位を社会に確保して居る人々のみを、一定の標準に従つて厳選して記載した。」とある(注5)。池袋モンパルナスの盛期を1930年代半ばから終戦前の時期に置くと、その草創期は明治期の最終盤から大正期にかけての時期に当たる。この時期の状況を確認するために①明治45年(1912)の事項を掲載した『日本美術年鑑』(画報社編)、②昭和2年版(記載されている内容は大正15年、東京朝日新聞社刊)、③昭和11年版(掲載内容は昭和10年、美術研究所編)、を対象とした。『日本美術年鑑』は大正期の発行が欠落しているが、1930年代半ばにアトリエ付貸家が建てられ始めてからの動向を③に見て、その前の状況を①と②から検討するものである。②では関東大震災後の状況の変化も読み取れる。『日本美術年鑑』は周知のとおり、昭和4年(1929)に美術年鑑社から刊行されているものと、昭和11年(1936)から現在もその発行を続ける東京文化財研究所の前身・帝国美術院付属美術研究所により刊行されているものと、ふたつある。ここでは後者を指す。特に③については、「能ふ限り正確忠実なる記録の編成」に努めたとある、美術研究所で『日本美術年鑑』が刊行されて2年目のものを対象とした。ここでは「池袋モンパルナス」を、現在の豊島区を中心とする一帯、と考える。幕末維新期、次々と行政制度が変化していく中で、主に豊島区を中心に行政区画の変遷を追ってみるならば、慶応4年(1868)7月、東京府が成立し、明治改元後の11月には豊島区は長崎村(注6)を除いた高田村、雑司ヶ谷村、池袋村、新田堀之内村、巣鴨村、上駒込村が東京府に編入された。廃藩置県を経て、明治11年(1878)11月、15区6郡が定まり、「北豊島郡」となり、昭和7年(1932)35区制となった時点で「豊島区」が成立している。この間、明治22年(1889)に成立した東京市は、昭和18年(1943)に東京府が東京都になるまで続いている。②の『日本美術年鑑』で「市外」と表記されているのはこのためである。なお、大正年間に漸次町制が施行され、たとえば長崎村が長崎町になったのは大正15年(1926)のことだった。豊島区成立までの変遷は上記の通りであるが、現在でも板橋区、練馬区、新宿区、文京区、北区と隣接しており、ここで扱う池袋区域(「池袋モンパルナス」)の範囲をどこまでと考えるかは難しい。住所としては「豊島区」でなくとも、豊島区を行き交った、まさに「池袋モンパルナス」の雰囲気を醸し出していただろう人たちを、住所のみで排除することはできないのである。故に、35区制がしかれた昭和7年に豊島区― 407 ―
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