そこで、この文雅慶彦のその頃の動向を『隔蓂記』で探ってみる。すると、慶安元年5月29日に文雅慶彦が蔵主から首座に転位していることに気づく。このことを踏まえるなら、山本友我「瀟湘八景図」について次のように整理できそうだ。狩野安信「瀟湘八景図」に触発され、山本友我「瀟湘八景図」が正保3年(1646)4月4日に描かれた。その直後から10月までの約半年の間に最岳元良、三江紹益、洞叔寿仙、鳳林承章、雪岑梵崟、周南円旦、玄英寿洪の七人がそれに着賛した。ところが、そこから一年半の空白があり、慶安元年(1648)5月14日に鈞天永洪に着賛が依頼される。そして5月29日に文雅慶彦が首座となり、6月23日に昕叔顕晫の跋文がしたためられた、ということになる。このように整理すると、山本友我「瀟湘八景図」は次のように考えることができるのではないだろうか。山本友我「瀟湘八景図」は賛文が揃ってゆくある時点で、文雅慶彦が首座となる時が完成時期と定められた。定めたのは、恐らく鳳林承章である。そのため七人目の玄英寿洪の賛文が記されてから一年半、八人目の鈞天永洪の賛文は記されなかった。そして、文雅慶彦が首座となる直前に鈞天永洪に着賛が依頼され、八人全ての着賛が整った後に総仕上げとして昕叔顕晫の跋文が記された。『隔蓂記』を読むと、文雅慶彦が蔵主から首座に転位した慶安元年5月29日の翌日に、文雅慶彦が山本友我に依頼していた屏風壹双が出来上がったという記録も見つかる。このことも踏まえるなら、山本友我「瀟湘八景図」は文雅慶彦の首座への転位と関わる作品だと考えることができそうだ。実は、この推測は昕叔顕晫の跋文を参考にしている。そこに、次のように記されている。ある「好事人」が「画工」に描かせた「瀟湘八景」に「五岳八員老宿」の詩を賦してもらった。それに倣って描かせた「湘景(瀟湘八景図)」に先の詩を賦してもらうことを「八老宿」に求め、画と詩が成り、「文雅」がこれを得たと記されている(彼有好事人、倩画工図瀟湘八景、憑杖五岳八員老宿而賦詩、司我山綱維 文雅座元、又図湘景求謄八老宿前所賦之詩、画与詩倶成、文雅得之)。ここでの好事人が画工に描かせた瀟湘八景図とは、最岳元良が狩野安信に描かせた「瀟湘八景図」であろう。ここには山本友我「瀟湘八景図」に深く関わった鳳林承章が出てこないが、山本友我「瀟湘八景図」が文雅慶彦のための作品だったことは間違いないようだ。では、その文雅慶彦(1621〜98)とは一体どのような人物なのだろうか。『隔蓂記』で確認してみる。文雅慶彦は『隔蓂記』寛永13年(1636)7月11日条に相国寺塔頭松鷗軒の智泉座元に仕える侍者として初めて登場する。しかし、寛永20年(1643)8月29日にその智泉が他界、そこで蔵主となっていた文雅慶彦が松鷗軒の後嗣となった。― 31 ―
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