鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
421/625

東京美術学校の卒業生は78人であった。さて、①、②、③を通してみると東京美術学校の卒業生は増えている。これは採録数の母体を考えれば当然の結果であり、東京美術学校の学生自体が増えたこと、そして「池袋モンパルナス」の範囲に暮らす学生が増えたことも意味している。これらの作業を通じて見えてくることは上記の通りである。しかし官展のデータが多いことは否めない。本稿に間に合わなかったが、非官展作家の住所を出品目録、同人誌などから調べる作業は必須である。豊島区域内外の転居、近隣に在住する作家の関係性の検討等は、今後の課題である。一方で稿者は典拠を付けたデータを開示する、ということを心がけた。これまでにも同様のリストが無かったわけではなく、なんらかの方法でデータ化、活字化されてはいるものの、おそらくは紙幅の都合で典拠そのものは割愛されただろうと考えるからだ。なお、表の文字が非常に小さいことをお詫びする。美術ジャーナリズムの地、池袋『中央美術』は、大正4年(1915)10月に創刊され、休刊の時期(昭和4年7月から同8年7月)を挟んで、昭和11年(1936)12月に廃刊した総合美術雑誌である。発行は、中央美術社が担った時期を除いて日本美術学院である。これは、小説家であり編集者でもあり、通信教育とその美術展も開催していた田口掬汀(1875−1943)が、それまでに培った人脈と事業を統合するもので、唐突な美術雑誌の刊行ではない(注9)。掬汀に関する研究は、これまでに「大正画人ネットワーク 田口掬汀が拓いた『中央美術』」展(秋田県立近代美術館、1996年)があり、同展担当の山本丈志氏による「中央美術展覧会─美術団体の運営─」(『大正期美術展覧会の研究』東京文化財研究所編、2005年)がある。また、小笠原史氏「田口掬汀と中央美術」(『さきがけ新聞』、2005年)、近年では、通信教育としての中央美術展に焦点を当てた記述のある及川益夫氏『大正のカルチャービジネス 絵画通信教育と広告イラスト』(皓星社、2008年)もある。出身地秋田・角館を中心に形成された掬汀の人脈は大変幅広いもので、日本画の団体・金鈴社の結成、運営にも深く関与している。この掬汀が、中央美術の編集部とともに豊島区域に転居してきたのは、関東大震災による罹災が原因である。本郷弥生町から市外長崎村荒井1832への転居である。関東大震災後の豊島区域の人口の増加はよく指摘されるところで、掬汀もその例に漏れない。古くは田端文士村を擁する東京の北西部は、鉄路の拡大・延伸とともに農村だけではなく多くの居住者を抱えることになった。― 410 ―

元のページ  ../index.html#421

このブックを見る