一方、中央美術社展覧会(以下中央美術展と略する)は、『中央美術』を発行する日本美術学院が主催した公募展である。中央美術展(1920−1936年、休会を挟んで12回開催)は、作家が団体展に出品するまでの登竜門の位置づけを自負していたようであるが、その後活躍していく作家には、広島晃甫、森田紗夷(淀橋区下落合、表1未記載)、小川千甕(豊島区域在住、表1−B)ら日本画家、東京美術学校を卒業した掬汀三男の田口省吾の交友関係から鈴木千久馬(本郷区駒込、表1−C)、片岡銀蔵(豊島区域在住、表1−B)らがいる。三岸好太郎、俣野第四郎、村山知義(市外下落合、表1未記載)、佐伯祐三、靉光らもである。錚々たるメンバーであるといえるだろう。これらの人々が、所属、ジャンル、党派、それらにとらわれることなく出品したのが中央美術展である。それはそのまま、『中央美術』と中央美術展の共通項である。中央美術社の出版物も興味深い。そこからは、制作者のすそ野を広げようとする意図─技法書の側面を持つ書籍の出版─とともに、批評的な側面もみてとることができる(注10)。ここには、制作者と鑑賞者と批評者とが連関することで美術界が形成されて行くのだ、という意志をみることができるだろう。これは先述したようにジャンルに拘らない中央美術社の姿勢を示すものであり、さらに言うならば大正期の動向であったと言えるだろう。そのほか出版関係では、豊島区域には新しき村編集部「曠原社」(1920年、長崎村字高松)、社会民衆党系出版社「クララ社」(1924年、高田町大字雑司ヶ谷)、日本プロレタリア美術団体の造形美術研究所、のちにプロレタリア美術研究所(1929年、長崎町大和田)と改称、さらに東京プロレタリア美術学校と改められたものがある(注11)。また『出版年鑑』1926−1928版(国際思潮研究会、記載内容は1925年)によると、西巣鴨町に岡田日栄堂、市外池袋に四紅社、詩文雑誌『DADA is』が市外巣鴨町にあった。美術雑誌としては、牧野虎雄を中心とする『美術新論』(1926年刊行)の編集部が、本郷区駒込にあったが、牧野は当時北豊島郡長崎村に住んでおり、編集主任金井文彦は市外瀧野川町に在住していた。おわりに 「党派を越へて」(注12)昭和35年(1960)、寺田政明(1912−1989)と吉井忠(1908−1999)は、「白い道」と題された対談のなかで池袋時代を回想している。長いので部分的に引用する。寺田「(前略)池袋は当時、池袋モンパルナスといって、金のないインテリ、画家が多いところでした。住みやすい土地だったんでしょうね……。」吉井「当時池袋は画家、彫― 411 ―
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