鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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注⑴ 小熊秀雄「池袋美術家倶楽部結成を祝ひて」『第一回池袋美術家クラブ展覧会』1936年9月所刻家の住む村だった─。林武、本郷新、北川民次、そういう人達がいて、目白あたりにはつばの広い帽子をかぶって着物を着た、安井曽太郎がプランプラン歩いていたし、熊谷守一さんは、当時から同じ家、今でも当時そのままの住いにおられる。」中略、吉井「斉藤長三、糸園和三郎、みんなそこに居たナ……。」寺田「千家元磨さんも近くに居られた。(中略)今も演劇界という演劇評論の雑誌を続けておられる利倉幸一さんとの交流もそこででした……。「新しき村」の会員だったからですね……。」吉井「牧野虎雄も近くに居ましたからね……。」寺田「長崎と落合とは、線路をへだててすぐ隣りでして(後略)」寺田「線路際に中央美術をやっていた田口省吾という立派な作家もいました。」(注13)とある。ここにはなんと多くの党派を越えた作家たちがでてくることか。その一方で、現在、池袋モンパルナスが語られる際にシュルレアリスムにひきつけられることが多いという傾向は否定しがたいのではないか(注14)。この点については、これまで言及がなされてこなかったわけではない。尾崎眞人氏は「官展系作家と在野の作家が同衾したり、団体の異なる作家が町内に共生することで、作家たちの自由区意識はつくられた。そして「池袋モンパルナス」では音楽、演劇、映画、文学などの他ジャンルとも同席できた。自ずと、個と個の切磋琢磨は新たな作品を生み出す原動力となった」(注15)と平成16年(2004)に述べている。一方で昭和60年(1985)の「東京モンパルナスとシュールレアリスム」(板橋区立美術館)は、尾崎氏自身が展覧会名において、戦前期の美術に対して「モンパルナス」を使い始めた最初であると考える。ここではひとつの切り口としてシュルレアリスムを取り上げ、タイトルに使っているに過ぎない。しかし同展がその後の方向性に影響を与えた部分は大きいのではないか。池袋モンパルナスとシュルレアリスムは、同義のように扱われるようになってはいないか(注16)。このことは、実は池袋地域に限った問題ではないだろう。現在の近代美術史研究が抱える問題と考える。先端を行くもの[前衛]は好まれ、その地平を支えるもの[官設展]は敬遠される。背景の状況から文脈を構築・説明してゆくこととは別に、一点一点の作品を、背景にとらわれずに見極めることも、求められている。今は端緒を示したに過ぎない各項目の充実を図ると共に、この点についても今後の課題としたい。― 412 ―

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