収、頁数なし。⑵平成18年(2006)以降、地域の実行委員会形式で「新池袋モンパルナス西口まちかど回遊美術館」が開催されている。2013年5月の開催で、8回目を数える。⑶池袋モンパルナスの言葉の変遷については、秋山伸一「「池袋モンパルナス」に関する二、三の考察」(『生活と文化』19号、2010年3月、21頁から30頁)に詳しい。そこでは、戦前・戦後の池袋駅西側一帯に点在していたアトリエ付住宅群を「長崎アトリエ村」と総称してきた豊島区立郷土資料館の基本姿勢に基づき、「アトリエ村」と「池袋モンパルナス」を、当時その地に暮らし活動していた作家たちの証言で検証している。その言葉の指し示すところは、前者は、1960年代後半から70年代にかけて居住空間に統一、定着してきて、後者は、文化圏を指すとしている。池袋モンパルナスを「単に長崎地域においてアトリエ付住宅が建ち並ぶ状況や、池袋駅前の雑然とした街並みを表現したわけではなく、旧長崎町地域から池袋駅にまたがる漠然とした空間の中に生や交流を求める多種多様な人たちの生きざまではなかったか」(同、29頁)としている。⑷『日本美術年鑑』(明治45年=大正元年版、画報社、1913年)では「△の記号を附せる登載の士より回報を得ざりしもの、或は其他の事由により編纂部に於て調査したるものとす」、『日本美術年鑑』(昭和2年版、東京朝日新聞社刊、1926年)巻末1頁には「この名簿は、すべて東京朝日新聞社調査部に於て、一定様式の調査票を、親しく各作家に配布し、直接得たる回答を基礎として編纂した、最新且つ正確なものである」と記載されている。⑸『日本美術年鑑』昭和11年版、美術研究所編、1936年、巻末90頁。⑹長崎村が大宮県や浦和県を経て東京府に編入されるのは明治5年(1872)のことである。「豊島区町名等の変遷一覧」(『豊島区史地図編』下、豊島区史編纂委員会、1974年3月)では、昭和39年時点での住居表示から、さかのぼる形で町名の変遷を追うことができる。⑺それぞれの区の、どこの地区までを扱うのが適当であるのか、まだまだ検討の余地は大きい。⑻稿者は国書刊行会発行の復刻版(影印版)を参照した。⑼しかし、田口個人にとっては、サイドストーリーであったかもしれない、とも言われている。そこに光を当ててきたのが、秋田県立近代美術館の仕事である。⑽川路柳虹『現代日本美術界』は大正14年(1925)に中央美術社から出版されている(その時点の住所は東京市外長崎村1832と表記されている)。たとえば、同書巻末所載の中央美術社発行の書籍を挙げれば、以下の通りである。石井柏亭『画の科学』、同『美術と自然滞欧手記』、『素描選集』、橋本関雪『南画への道程』、中村不折『芸術解剖学』、川端龍子『画室の解放』、村松梢風『本朝画人伝』、小野賢一郎『陶器を試る人へ』、永瀬義郎『版画を作る人へ』、足立源一郎『人物画を描く人へ』、鍋井克之『風景画を描く人へ』、榊原紫峰『花鳥画を描く人へ』、藤井浩祐『彫刻を試る人へ』、佐久間政一『ロダン研究』、石井柏亭『我が水彩』、新井洞巌『南画の描き方』、竹内逸『美術音楽 芸術時代』。ほかには、『現代漫画大観』や『日本風俗画大成』といった全集もの、『日本美術大年鑑』(1925、1926年)もある。⑾豊島区史編纂委員会編『豊島区史』通史編、1983年11月、752−768頁。⑿本稿冒頭に引用した小熊秀雄の詩による。⒀『美術ジャーナル』復刊第25号・第26号、1960年11月、12−14頁。⒁この傾向はどこから始まるのだろうか。練馬区立美術館で開催された『池袋モンパルナス展絵画の青春・自由の精神』(2000年4月)によるところは大きいかもしれない。カタログ論文の中で、同展覧会について、土方明司氏は結果としてシュルレアリスムの表現が多くみられた― 413 ―
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