鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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研 究 者:和泉市久保惣記念美術館 学芸員  町 田 つかさはじめに「彫刻は、画家が絵画に対してなしうる最大の注釈である」という作家自身の言葉からも明らかなように、パブロ・ピカソの制作はつねに、絵画と立体の相克から生まれた(注1)。1910年代に見いだされたキュビスムという視覚芸術における革新は、立体(コンストラクション)と平面(コラージュ、パピエ・コレ)の間に生まれた円環によって大成される〔図1〕。続く1930年代に制作されたブロンズ像は、絵画作品に描かれる人物の形態を再現するばかりでなく、モデルとしても絵画の中に繰り返し見いだされる〔図2〕。また1950年代以降には、折り曲げて造形された金属板に線描を施した、絵画と立体の融合とも言うべき金属板彫刻(Seet-Metal Sculpture)が多く生み出された〔図3〕。このように、どちらが先に生まれたとも明言できかねるような絵画と立体の蜜月と、二次元と三次元の間に果てしなく繰り返される往還の試行錯誤が、ピカソの制作を常に新境地へと導いていったと言えよう。ピカソの絵画作品を十全に理解するためにも、立体作品の占める領分はあまりに大きいものである。しかしながら、ピカソはこれら立体作品のほとんどを自分の手の届くところに置き、絵画のようには頻繁に世間に発表することをしなかった。そのため、これらの作品はほとんどその存在を知られることがないまま、数十年の時を過ごしていたのである。あるいはそれは、ピカソの描く《彫刻家のアトリエ》に現れる彫刻のように、作家の創作の秘密を最も近くで目の当たりにする目撃者としてかくまわれていたのかも知れない〔図4〕。本研究では、1967年にニューヨーク近代美術館(以下MoMA)で開催された展覧会“The Sculpture of Picasso”に関する一次文献を精査することで、この展覧会がピカソ晩年の立体作品受容にとっていかなる意義を持つものであったのかを明らかにする。また、その作品について必要以上に語らなかったピカソが、立体作品に対していかなる感情を持っていたのか、その一端を、第三者の証言を元にした新たな角度より照射することを目的とする。― 418 ― パブロ・ピカソによる1950年代の立体作品について─ Alfred Barr Papersに見る展覧会“The Sculpture of Picasso”(1967)の実態とその意義─

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