鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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これ以降、文雅慶彦が『隔蓂記』に頻出するようになり、寛永21年3月1日からは鳳林承章に参禅するようにもなった。その後、文雅慶彦は鳳林承章に最も近い存在となってゆく。例えば、持病のあった文雅慶彦のため鳳林承章は何度も医師の手配をしているし(正保3年6月18日ほか)、鳳林承章が文雅慶彦に瑞渓周鳳筆松風齋記の掛物を与えるなど様々な品を贈与しあってもいる(正保3年6月10日)。その鳳林承章を介し、文雅慶彦は多くの人物と面識をもつようになる。その中には後水尾法皇もいた。そして、いま注目している山本友我「瀟湘八景図」が完成してから25年後の延宝元年(1673)、文雅慶彦は鹿苑寺住持となる。その後、他界するまで26年間その任をつとめ、その間に後水尾法皇の寄進を受け、方丈など鹿苑寺の多くの堂宇を造営修理した。このことが「鹿苑寺由緒書」や方丈屋根裏棟札などに記されている(注9)。現在の鹿苑寺の姿は、文雅慶彦により整備されたものなのである。その文雅慶彦の先々代の鹿苑寺住持が鳳林承章である。鳳林承章が他界したのは寛文8年(1668)8月24日だから、鳳林承章は文雅慶彦が鹿苑寺住持となったこと、文雅慶彦が鹿苑寺住持を再興したことを知らない。しかし、以上のことも踏まえるなら、山本友我「瀟湘八景図」は文雅慶彦だけではなく、鹿苑寺そして鳳林承章にとっても意義深い作品ということになる。なお、先に見た『隔蓂記』から分かる山本友我「瀟湘八景図」の成立経緯は、日本の詩画軸について考える際の興味深い一事例といえるだろう。室町時代、特に応永年間を中心に五山僧の間で多くの詩画軸が制作された。ところが、それらの制作事情が具体的に分かる事例は少ない。伝周文「沙鷗図」(鹿苑寺)(注10)、芸阿弥「観瀑僧図」(根津美術館)、雪舟「破墨山水図」(東京国立博物館)のように制作事情がある程度推測できるものもあるが、山本友我「瀟湘八景図」のように具体的に分かる事例は珍しい。勿論、山本友我「瀟湘八景図」の制作事情を室町時代の詩画軸にそのまま当てはめることはできないが、これが日本の詩画軸を考える際の材料になることは間違いない。その意味でも、山本友我「瀟湘八景図」は貴重な作品だといえそうだ。このように山本友我「瀟湘八景図」は、ここから多くの問題が派生しそうな興味深い作品である。しかし、この「瀟湘八景図」を描いた山本友我自体も、最近確認されたある資料により俄然興味深い人物となってきた。その資料とは、狩野山雪(1590〜1651)の入獄の経緯を記した京都所司代・板倉重宗(1586〜1657)の『公事留帳』である。山雪が晩年に投獄されたことは獄中から長男・狩野永納(1631〜97)に宛てた「狩― 32 ―

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