1.ピカソ立体作品のベールをはいだ三つの展覧会 パリ、ロンドン、ニューヨーク作家の元に秘匿されていた膨大な数の立体作品が初めて観客の目に触れたのは、1966年、パリ・グランパレを会場に開催された大回顧展“Hommage à Picasso”でのことだった〔図5〕(注2)。この展覧会はピカソの85歳を祝うものであり、文化担当大臣のアンドレ・マルロー、ジャン・レイマリーらピカソの旧知の友人たちがその実現のために奔走した。この展覧会の翌1967年にはロンドン・テートギャラリーで“Picasso: Sculpture,Ceramics, Graphic Work”(注3)が、続く同年10月からは海を隔てたニューヨーク近代美術館で“The Sculpture of Picasso”(注4)が立て続けに開催される。この二つの展覧会は、タイトルからもわかる通り、ピカソ作品のうち立体作品に焦点を当て、その全貌を一挙初公開する展覧会であった。既によく見知った有名画家ピカソのまだ誰も見たことのない作品が数え切れないほど存在していたという事実と、これまでにないような全く新しい立体表現は、多くの観衆を連日高揚させた(注5)。資料をひもとくと、テートギャラリーとMoMAでピカソの立体作品のみを集めた展覧会を行うことは、少なくとも2年前の1965年には十分な具体性をもって計画されていたことがわかる。当時は、バーに加え展覧会の担当キュレーターであったルネ・ダノンコート〔図6〕が中心となり、美術批評家でピカソ立体作品史についても詳しいローランド・ペンローズらとともに出品作品の構想を練っている最中であった(注7)。しかしながら、後述するように、ピカソ本人の承諾はなかなか得ることができなかったようである。ピカソは豊富なコンストラクション、ブロンズ像、アッサンブラージュに至る立体作品、いわばアトリエの秘密の目撃者たちを、少しの間でも手元から放すことに乗り気ではなかった。フランスから遠く離れたアメリカにこれらの作品を送るなどということは、ほぼ不可能と言っても過言ではなかっただろう。パリでの回顧展開催は、ピカソの手元から一度これらの作品を引き離し、その懐へと戻す前にロンドン、そしてニューヨークを巡るワールドツアーを実現させてしまおうともくろむ関係者たちにとって、最後にして最大のチャンスであった〔図7〕(注8)。MoMAの初代館長であるアルフレッド・バー・Jr.が遺した業務上のやり取りを記録した文書、館の運営や携わった展覧会に関する資料は、同館アーカイヴにAlfred BarrPapersとして保管されている。この膨大な資料の中に、1967年に開催された同展覧会に関する記録も含まれている(注6)。― 419 ―
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