鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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「ロンドンとニューヨークでの展覧会について、ピカソから承諾を得るためにはいつが最も良いタイミングだろうかとゼットとジャクリーヌに聞いてみたところ、二人は声を揃えてこう言うのだ。“家の中からものがすっかり外に出てしまう時を待った方が良い、それが一番簡単だから”」(注9)南仏のピカソの元を度々訪れ、展覧会開催の交渉に当たっていたペンローズがバーに宛てた手紙からは、ピカソの説得が困難を極めたことが窺える。「ピカソは私に、パリでも展示をするのだから、ロンドンに立体作品を持っていくことはかまわないと言った。だが、ニューヨークについてはどうかと尋ねてみたところ、“それについてはまだまだ時間が必要だ。まだイエスとは言えない。”と言葉を遮られてしまった。」(注10)後に詳述するが、当時のテートギャラリー、そしてMoMAに所蔵されていたピカソの立体作品は、わずか数点のみであった。この時点で、世界で最も豊富なピカソ立体作品コレクションのオーナーは、ピカソ本人に違いなかった。立体作品にのみ特化した展覧会を実現させるためには100点を超える出品作の確保が必要であり、ピカソ本人からの協力は不可欠だった。立体作品をメインとした展覧会の実現のためには、このチャンスを逃すわけにはいかなかったのである。展覧会の構想から二年、ついに吉報がもたらされる。1967年1月9日、一通の電報がMoMAに舞い込んだ。「いいニュースだ。ピカソがMoMAでの展覧会の開催に合意してくれた。」(注11)こうしてついに、ピカソの立体作品が海を渡ることが決まったのである。ロンドンのテートギャラリー、そして遠く海を隔てたアメリカのMoMAでの展覧会が実現するためには、1966年の“Hommage à Picasso”の成功と、なにより立体作品が閉ざされたアトリエから放たれ、世界に見いだされることが不可欠であったのだ。2.MoMAのコレクション形成と《ギター》購入計画史上初、そして最大の規模となるであろうピカソの立体作品にのみ限定した展覧会が実現するにあたり、走り出したのは展示の準備だけではなかった。ピカソとの合意以前から、バーはアメリカ国内に所蔵されているピカソの立体作品の洗い出しをはじめていた(注12)。これは展覧会のためばかりでなく、MoMAの収― 420 ―

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