鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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3 .コンストラクションとシルヴェットの胸像、戦後ピカソの立体作品に見る新たな展開ピカソの立体作品を目玉としたこれら二つの展覧会が、純粋に作品に対して高い評価がなされたがゆえに興ったものでないことは、明らかである。テート・ギャラリー改修後はじめてのお披露目や、MoMAというまったく新しい美術館にふさわしいコレクションの拡充といった、様々な事情から望まれたが故に実現したものであったことは間違いない。それでは、この展覧会はピカソの、特に晩年と呼ばれる戦後の立体作品史を形成する上でどのような役割を担うものであったのだろう。結局、展覧会が終了する時点では《ギター》をはじめとするこれら立体作品の購入は実現しなかった。しかし1971年、ウイリアム・ルービンがムージャンのピカソの元を訪れ、作家自身からこの《ギター》を授かったことが、世界の話題をさらうことになるのである(注19)。この寄贈は、ここに至る度重なる交渉と、そして何よりMoMAにおいて同作品を初めて展示することに成功した1967年の展覧会“TheSculpture of Picasso”が存在しなければ起こりえなかった出来事である。このように、ピカソの立体作品の展示をめぐる様々な試みが、MoMAのピカソコレクション形成の新たな展開を誘発し、数十年の時を経てさらなる拡充へと導いたのである。先述の通り、MoMAは1957年にもピカソの75歳を記念した回顧展を開催している。この展覧会を見た美術批評家で、抽象表現主義隆盛の旗手であったクレメント・グリーンバーグが発表したのが、論文「75歳のピカソ」である。キュビスムの最盛期がはるか昔の栄光になってしまったことを冒頭で述べた後、グリーンバーグはピカソが、キュビスムの終焉以降、1920年代後半から彼を襲った危機からついに回復しなかったことを早々に結論付ける。特に第二次世界大戦以降にピカソが制作した絵画について、一度はキュビスムを捨て去ったピカソが、その手法を大画面に応用して描いたいくつかの作品を評して、グリーンバーグは「キュビスムは模倣されたどころではなく、戯画化さえされてしまった」と嘆いている。グリーンバーグによれば、まるでピカソはキュビスムの亡霊に取り憑かれ、そこから逃れようと制作を重ねているかのようである。グリーンバーグは、ピカソはもはや時流から外れたキュビスムを繰り返し焼き直しているだけで、その営為が後継を生み出さない無為なものであるとして批判した(注20)。グリーンバーグの批判から10年を経てニューヨークに帰ってきたピカソは、立体という全く新しい地平を人々の目の前に開いた。そしてこの帰還に際し、展覧会広報の― 423 ―

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