野松柏尺牘」により早くから知られていたが(注11)、投獄理由は長らく不明だった。ところが、この『公事留帳』の記録から、山雪は義弟・狩野伊織が作った借金のために入獄させられたことが分かった(注12)。借金は山雪が作ったものではないのだが、以前から言われていたように、山雪の入獄理由は金融トラブルだったのである。そうなると、事情は異なるが、狩野山雪と山本友我はともに金融トラブルにより京都所司代に裁かれたということになる。更に興味深いことに、狩野山雪が法橋になったのは正保4年(1647)7月2日であり、友我が法橋となったのはその約半年後の慶安元年(1648)2月29日である。つまり、ほぼ同時期に法橋となった二人の絵師が、ともに金融トラブルにより京都所司代に裁かれたことになる。因みに、山雪を裁いた板倉重宗は、山本友我を裁いた板倉重矩の伯父である。ところが、山雪と友我の結末は全く異なる。山雪は九条幸家を頼り、無実を訴えることができたため出獄が許されたようだ(注13)。九条幸家は関白を二度つとめた人物だった。特に二度目の関白在任中の元和6年(1620)には徳川和子(1607〜78)の入内があり、幸家は関白として幕府方の人物たちとの折衝にあたっている。その一人が板倉重宗だった。つまり、幸家と重宗には面識があったのである。このことが山雪の助命に大きな役割を果たした可能性がある。山雪に九条幸家という後ろ盾が無かったのなら、山雪は入獄され続けていたかもしれない。このように考えると、山雪と幸家の関係は実に重要だったということになる。では、山本友我はどうだろうか。『板倉政要』『狛平治日記』によれば、友我親子が詐欺を働いたことは事実のようだ。しかし、これは「はりつけ成敗」となるほどの罪だったのだろうか。この件について『板倉政要』には、友我の子・山本泰順について、「名を得たる学者にハ似合ぬ仕方、言語を絶する次第なり、後来のこらしめ」のため、はりつけに処せられたと記されている。情状酌量の余地のない、見せしめの目的をもった厳しい裁きだったようだ。そこで想像したいのは、友我に有力な後ろ盾があった場合、どうなっていたのかである。つまり、山雪の助命に尽力した九条幸家のような後ろ盾が友我にもあった場合、どうなっていただろうか。友我の顛末は、少なくともはりつけにはなっていなかったのではないだろうか。山本友我は悲しい最期を迎えた絵師だった。そして、ここで詳しく見てきた「瀟湘八景図」は、友我が悲劇を迎える20年程前、最も幸せだった頃の作品だったといえるのかもしれない。― 33 ―
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