研 究 者:東京都江戸東京博物館 学芸員 岡 塚 章 子はじめにこれまで、黎明期から明治期にかけての写真史研究では、写真技術の進歩や伝播に焦点があてられ、カメラや感光材料の発達の歴史を辿りながら、撮影された被写体を分析し、記録媒体としての側面から写真の歴史的価値を考察する手法がとられてきた。それは当時、海外から新しい写真技術や感光材料が次々と入り、技術の変化が、撮影対象と撮影結果に大きく作用していたからである。しかし、明治中期から後期にかけての日本では、技術だけではなく、海外の写真の動向や同時代の海外作家による写真作品も紹介されていた。そして、それらを推し進めた人物が小川一眞(万延元年(1860)〜昭和4年(1929))である。写真師で唯一、帝室技芸員を拝命した小川一眞は、これまで写真撮影から、印刷、出版といった写真を軸とした一連の事業を展開し、成功した事業家といった評価がなされてきた。しかし、小川の事績を丹念に調べると、日本で最初の写真団体「日本写真会」の立ち上げに参画し、写真雑誌『写真新報』の編集人として海外の情報や写真表現を積極的に紹介し、海外写真家の作品集を出版するなど、海外の写真文化の日本への導入者という、これまで注目されていなかった一面をもっていたことがわかった。本論では、小川一眞が明治期における写真文化の発展にどのような役割を果たしたかを、小川の事績を辿りながら明らかにする。1.小川一眞について小川一眞は、万延元年(1860)、武州行田(現、埼玉県行田市)忍城下の成田町で、藩士原田庄左衛門の次男として生まれた。幼名は朝之助といい、文久3年(1863)に忍藩士小川石太郎の養子となり、名を一眞と改める。慶応4年(1868)、藩校「培根堂」に就学。明治6年(1873)には東京の報国学社(俗称、有馬学校)に入学し、ここで写真好きの英国人教師、カノンと出会い、写真術の存在を知る。明治9年(1876)に報国学社を卒業した小川は、埼玉県熊谷市で写真業を営んでいた吉原秀雄の下で働き、湿板写真術を身につけた後、明治10年(1877)に群馬県富岡市で撮影業を開始。3年ほど続けた後、再び東京に出、「築地大学校」(通称バラ大学校、現在の明治学院大学の前身)に入学し、語学を身に付ける。学資をかせぐため横浜警察署にて英語通訳の職に就いた小川は、外国人を通じて海― 433 ― 明治期における写真文化の発展に小川一眞が果たした役割について
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