外の情勢を知るにつれ、渡航したいと考えるようになり、渡米を決意。明治15年(1882)7月にアメリカ海軍軍艦スワタラ号に乗り込み、横浜を出発(注1)。スワタラ号は喜望峰を経由し、12月4日にバージニア州ハンプトンローズ港に入港。下艦した小川は、ワシントン、ニューヨークを経て、12月下旬にマサチューセッツ州ボストンに到着。翌、明治16年(1883)1月からボストンの写真館で働き始める(注2)。ボストンでコロタイプ印刷術や乾板製造を学んだ小川は、明治17年(1884)年1月に帰国し、翌、明治18年(1885)、麹町区飯田町4丁目1番地に写真館「玉潤館」を開設し写真撮影業を始める。そして明治21年(1888)5月から実施された近畿宝物調査に宮内庁より撮影の任を帯びて参加し、文化財の記録写真を撮影する。明治22年(1889)に京橋区日吉町に小川一眞写真製版所を開設してからは、コロタイプ印刷業を本格的に始め、同年10月に創刊された美術雑誌『国華』の図版をコロタイプで制作するようになる。このように小川一眞は、明治10年代後半から20年代初頭にかけて、アメリカで学んだ技術を駆使し、写真撮影業と印刷業を開始したが、それと並行して写真文化の啓蒙活動も精力的に行っていた。2.『写真新報』と「日本写真会」明治22年(1889)5月10日、小川一眞が発起人の一人となり、日本で最初の写真団体である「日本写真会」が結成された。5月10日の『東京朝日新聞』に次のような記事が出ている。●日本写真会小川一眞其他の諸氏発起人となり今十日虎の門内の学習院に於て日本写真会といふを開き写真に関する講話等をなす由なり「日本写真会」の発足に小川一眞が関わった理由としては、「日本写真会」が当時、小川が編集兼発行人となって刊行されていた写真雑誌『写真新報』の誌面でその必要性が呼びかけられ、結成された団体だったからである。『写真新報』は、出版時期により3つに大別することができる。最初の『写真新報』(第1次)は明治15年(1882)9月に朝陽社から創刊され明治17年(1884)9月の第18号で一旦終了(注3)。次の『写真新報』(第2次)は、小川一眞が編集兼発行人、小川の兄である原田庄左衛門が経営する博文堂書店が発売所になって明治22年― 434 ―
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