(1889)2月に第1号が刊行され、小川は第4号(明治22年6月)まで編集兼発行人を務めた。第5号(明治22年7月)からは小川にかわって伊東直三が編集兼発行人となり、第8号(明治22年9月)まで刊行。第9号(明治22年10月)からは佐藤鉄弥が編集兼発行人となり、第66号(明治28年(1895)2月)に発行所として鹿島清兵衛の経営する玄鹿館、売捌所として写真新報社が加わり、第84号(明治29年(1896)9月)で終了する。最後は写真新報社が出版元となり、明治29年(1896)11月から『写真新報』(第3次)が刊行されるが、戦時雑誌統廃合のため、昭和15年(1940)12月号で廃刊となる。このように『写真新報』は、出版社や編集人を変えて明治中期から戦前まで出版された写真雑誌で、小川が編集兼発行人を務めたのは、明治22年(1889)2月25日に刊行された『写真新報』(第2次)の第1号から第4号までの僅かな期間であったが、この時期、小川によって、他の写真雑誌とは一線を画した、写真の芸術性を啓蒙する特色ある編集方針が形づくられ、読者を中心とした同好の士が集まって「日本写真会」が結成されたのであった。『写真新報』第1号〔図1〕に掲載された、「日本写真会」設立の提案記事は、次のとおりである。○ウェスト氏より来状写真新報記者足下拝啓貴報の出版ハ日本写真会の発起に付き諸人の論説を陳述し公布するに極めて好き折合を与へ候事と存候欧州にてハ斯る会合ハ何れも盛大に趣き候是大に其理ある事と信し候斯ある会にてハ実地の覚へある写真師を始め余暇ある素人等何人を問はず少しにても写真に関係を有する人と皆相集りて各自の経験並に考案を陳述致候事に候へハ写真術の改良進歩にハ又有益なる事に有之候又少々の会費を出せバ何人にても加入差支無之候へバ自然写真商売人の間柄をも和げ彼の商売敵として卑劣千万なる想像も自然に消へ失せ互に和睦一致して只管写真術の改良進歩を謀る様相成可申候惜哉日本にては未だ斯る会合無之従て写真家同志少しも親密ならず加之往々相敵視する姿無之哉と傍観者の私共も聊懸念の筋に有之候斯る勢にてハ迚も写真術の進歩を望むこと抔ハ思ひ寄らぬ事にて切に慨嘆の次第に御坐候前述の次第に候へバ小生ハこヽに日本写真会を発起せむ事を申出候小生の考察にてハ本部を東京に置き内外人を問はず素人職業師を問ハず苟も写真術に志す人ハ― 435 ―
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