鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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「日本写真会の案内」ならびに「日本写真会録事」から、ウェストの提案に賛同した職業写真家や有志が、明治22年(1889)5月10日に学習院に集まり、会則を決め、役員を選挙で選ぶことを定めて一旦解散。5月22日に築地三十三番館で開催された会合で選挙をし、「日本写真会」の副会長にウィリアム・S. ビゲロー(William SturgisBigelow、医師)、菊池大麓(東京帝国大学理学部教授、後に学長)、書記にウィリアム・K.バルトン(William Kinninmond Burton、帝国大学工科大学教授、衛生工学)、石川巌(高等商業学校教授、理学士)、委員にウェスト、小川一眞、会計に浅沼藤吉(写真材料商、浅沼商店)を選び、次回の会合の催しとして、小川一眞がイギリスから取り寄せたプラチナプリントの実験と解説を小川に依頼したことがわかる。この時の選挙では、「日本写真会」の会長は決められなかったが、『写真新報』第5号(明治22年(1889)7月2日)の「日本写真会」の記事に、榎本武揚が会長に就任したことが書かれている。「日本写真会広告」では、次回の木挽町の商工会で開催する会合に参加したい人は、前もって日本人は小川一眞に、外国人はウェストに通知すれば、入場券代わりに名刺を渡してもらえるとある。発足当初は40人余りであった「日本写真会」は、4か月後には65人となり、その中の半数にあたる33人は外国人会員といった、ウェストが考えていたとおりの国際色豊かな写真団体となった(注5)。4.「日本写真会」と展覧会「日本写真会」では、会員同士の親睦を図るだけではなく、会員による展覧会の開催も行っていた。明治23年(1890)5月9日、日本写真会第1回年会を木挽町商工会で開催した際、小西六右衛門、浅沼藤吉、鹿嶋政之助(鹿島清兵衛)、石川巖、小川一眞、バルトン、榎本武揚らが写真機材や各種写真印画など、それぞれが得意とする写真関連作品を展示している(注6)。また外国人会員の多い「日本写真会」ならではの活動として、海外作家の展覧会も主催している。明治26年(1893)5月13日、上野公園、旧博覧会跡第5号館で「日本写真会」の主催による「外国写真展覧会」が開催された。『写真新報』第44号(明治26年(1893)1月31日)に展覧会の開催の経緯と概要が書かれており、それによるとロンドンのカメラクラブからロンドンの有名な写真家の写真数百枚を「日本写真会」に提供し、日本で展覧会を開催したいという希望が出され、これを「日本写真会」が承諾したとある。展覧会は東京で一回、横浜で一回、それぞれ14、5日間の開催を見込んでおり、― 438 ―

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