5.『標本写真帖』と小川一眞「外国写真展覧会」によって当時の人々は表現としての写真を目にしたわけだが、この展覧会が開催された3年後の明治29年(1896)、『標本写真帖』(編纂発行兼印刷者 小川一眞 / 印刷所 小川写真製版所支店 / 発売所 浅沼商店、桑田商店 / 明治29年11月20日発行)〔図3、4〕という一冊の本が小川一眞によって刊行された。『標本写真帖』は、海外作家の写真作品64点を掲載した写真集であり、1頁に写真が1点印刷され、写真の下に作家名と作品名が英文で印刷されている。掲載作品の大部分はポートレイトや風景写真で、作品によって図版の色が異なっている。印刷には網目版印刷が用いられ、色は黒、茶、セピアの他、青や茶色がかった赤もあり、作品の雰囲気からゴム印画やブロムオイルといったピクトリアリズムの写真家たちが使っていたピグメント印画法を使った作品であることがわかる。ロンドンから日本までの往復の輸送費、額縁製造費、場所代は「日本写真会」が負担する。会員外の来館者からは入場料をとって経費にあて、足りない時は会の資金をあてる予定と書かれている。『写真新報』第46号(明治26年(1893)3月31日)の記事では、3月の時点で既にロンドンから278点の写真が送られてきており、さらにアメリカと中国からも写真が到着予定である。主催者としては、この展覧会が、日本の写真に影響を与えることを望んでおり、京都で開催される第4回内国勧業博覧会(明治28年(1895)4月1日〜7月31日)に出品される写真の中には必ず展覧会の影響が現れるであろうと述べている。写真展は、2便目の荷物が届くのが遅れたことから、5月13日からの開催となり、出品作品の総数は4、5百点にもなった(注7)。「外国写真展覧会」では、写真は全て額に入れられ、手前には結界が置かれ、会場の一隅にはカメラと撮影用のバックペーパーがディスプレイされていた〔図2〕。当時、欧米で流行していた写真表現は、ピクトリアリズム(Pictorialism、絵画主義写真)であり、作品制作にあたっては、プリント技法の習得は必要不可欠であった。来場者は展示されたオリジナルプリントを間近で見ることにより、同時代の海外作品の写真表現を知り、プリントがどのようにして出来上がっているのかを学んだに違いない。明治29年(1896)9月30日発行の『写真新報』第84号に『標本写真帖』の広告が出ており、そこには「写真新報発行所に於て八年間に蒐集せる外国出版雑誌の中より標準となるへきもの凡て五十種を撰み之を写真版に製し一綴となし標本写真帖と名け本店に於て之を出版す」とある。よって、この本を作るにあたっては、『写真新報』の― 439 ―
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