編集部が収集した海外の写真雑誌から小川が掲載図版を選び、それらを複写して1冊にまとめ、出版したことがわかる。『標本写真帖』に掲載されている写真のうちの何点かは、当時刊行されていた写真雑誌 The Photographic Times, New York: ScovillManufacturing Co., に見ることができ、『写真新報』第9号(明治22年(1889)10月28日)に編集部への寄贈として、ドイツ、イギリス、アメリカのいくつもの写真雑誌の名前が記載されていることから、小川は複数の雑誌から図版を選んだに違いない。掲載作品の写真家に、英国王立写真協会のメンバーであるアルフレッド・エリス(Alfred Ellis)や、アメリカ人広告写真家のC. N. パーカー(C. N. Parker)の名前を見ることができるが、ほとんどは、写真史に名を残している作家ではない。しかし、その中の1点に後にアメリカで近代写真の父と呼ばれるようになるアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)の初期の作品「A Happy New Year」がある〔図5〕。スティーグリッツは、幼少期をニューヨークで過ごし、1882年にドイツに留学し写真に興味を持ち、1890年にニューヨークに戻ってから本格的に写真を始めた。時期からみて、「A Happy New Year」は、ニューヨーク時代に撮影された写真であろう。この作品も当時刊行されていた写真雑誌に掲載されていたと思われ、そこから小川が選び、掲載したのであった。おわりに小川一眞はこの他、海外の写真技術・光学の研究書を翻訳して『写真新報』に連載し、それらを一冊にまとめて出版するなど、学術面での貢献も大きい。今後も小川一眞の活動の検証を通して、日本における写真文化の発展の過程を明らかにしたい。1880年代初頭にアメリカで最新の写真や印刷術を身につけ、帰国後にコロタイプ印刷業を立ち上げた小川にとって、海外の写真情報は事業展開をするうえで非常に重要であり、常に海外の動向に目を向けていたと推察される。小川が編集兼発行者となって明治22年(1889)2月に創刊された『写真新報』(第2次)は、当初から国際的な視点を備えており、『写真新報』誌上でのウェストの声掛けによって、国際色豊かな日本で最初の写真団体である「日本写真会」が発足した。明治26年(1893)に「日本写真会」の主催により「外国写真展覧会」が開催され、数多くの海外作家の写真作品が展示、公開されたことは、日本の写真表現に少なからず影響を与えたと考えられる。加えて明治29年(1896)に発行された『標本写真帖』で同時代の海外の芸術写真が紹介されたことは特筆すべきことであり、加えてスティーグリッツの写真が明治の中頃に日本で印刷され、人々の目に触れていたという事実は注目に値する。― 440 ―
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