研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 博士課程後期 伊 藤 麻 衣はじめにこのような重要な制作背景にもかかわらず、〈メランコリー〉シリーズは意味づけが困難な作品である。先行研究では、アルブレヒト・デューラーの手になる1514年の銅版画《メレンコリアⅠ》〔図5〕を下敷きにしていることが指摘され、画面内のモチーフに着目し、主題となるメランコリー観の比較が行われてきた。しかし構図の類似性などから、クラーナハによるデューラー追随作品の一環であると位置づけられ、それ以上の解釈はなされてこなかった(注2)。解釈の困難さの原因の一つとして、同時期に制作された作品とは異なり、1530年代半ば以降には制作されなかったこと、そしてクラーナハの後期様式の他の作品と関連づけて論じられてこなかったことが挙げられるだろう。そこで本稿では、一連の〈メランコリー〉を1530年前後のクラーナハの活動やヴィッテンベルクの社会状況という文脈の中において論じてゆくことを目的とする。特に、ルター教義と人文主義者の思想が盛り込まれた教訓画としての女性図像表現と関連づけてみてゆきたい。1.4作における《メレンコリアⅠ》の継承と変容クラーナハの〈メランコリー〉シリーズについて、個別にみてゆくと以下のような1528年から1533年の6年間で制作された、ルーカス・クラーナハ(父)(1472−1553)の〈メランコリー〉主題の作品は4点〔図1、2、3、4〕現存している。これら4作に関して注文状況は不明であり、ライムンド・フッガーのコレクションにクラーナハの《メランコリー》と思しき作品について言及されているのみである(注1)。このシリーズが制作されたのは、彼が宮廷画家として仕えていたザクセン宮廷の関係者や、親交のあったヴィッテンベルク大学の人文主義者にとっても非常に有意義な時期であった。ルター教義を信奉する諸侯がアウグスブルクの宗教会議を目前にして政治的結束を固め、カトリック陣営のみならず皇帝と敵対する結果となった。その一方で、ルターに賛同する人文主義者が宮廷や大学を中心に各地から集まり、大きな文化サークルが形成された。政治的緊張と文化的繁栄が共に高まったこの時期、クラーナハもまた新たな主題を開拓し、後期宮廷様式と呼ばれる優美な作風を生み出した。― 444 ― 16世紀ドイツにおける教訓画に関する研究─ルーカス・クラーナハ(父)の《メランコリー》を中心に─
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