鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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を擬人化したととらえられている。しかし、クラーナハと関わりのあるザクセン宮廷やヴィッテンベルク大学でもまた、土星と天才的メランコリーを結びつける肯定的見解がみられないわけではなかった。ルターの協力者であり友人でもあるフィリップ・メランヒトンは1540年に『気質について』を執筆し、メランコリーの害悪としての側面も論じつつも、創造性や天才との関連に着目して論じた(注10)。ルターは占星術に対して否定的であったが、メランヒトンをはじめとする大学の人文主義者は肯定的な立場を貫いていた。彼らと親交があったクラーナハにとって、「メランコリー」は多様なイメージを持つものであったのではないだろうか。よって、シリーズ内でのモチーフの変化は、メランコリーという概念の持つ多重的側面を表していると思われる。2.彗星から魔女へ:モチーフの転換土星の象徴的事物である彗星や虹のような特異な天体現象は、災厄や歴史的な事件を暗示するものとして忌避されてきた。クラーナハの《メランコリー》が制作された1520年代には、ヴィッテンベルクでは幾度も彗星や虹が目撃され、不安定な社会状況を示唆していた。それは、ルターやメランヒトンの書簡等からうかがえる。まず1525年5月23日のルターによるヨハン・リューヘル宛書簡では、フリードリヒ賢明公の死の前兆となるような虹を目撃している。「賢明公の死の徴は虹であり、フィリップ(メランヒトン)も私もそれを見ました。…そしてここヴィッテンベルクでは、一人の頭のない子供が、また一人は足がさかさまになった子供が生まれました。…」(注11)。また、ヨハン堅忍公の死の前年の1531年に書かれた2通の書簡においても、彗星の目撃が報告され、皇帝や諸侯への災難の予兆としてとらえている(注12)。これらの内容から、占星術を科学としてとらえないルターと占星術肯定派のメランヒトンは立場こそ違えど、共に天体上の異変を重視していたことがうかがえるだろう。また同時期に、クラーナハ工房に宮廷顧問官ゲオルグ・シュパルティンから年代記の挿絵制作依頼があった。その中には、ザクセンを襲った災害を描いたものもあり、彗星もその一つとして図におこされている。つまり、《メランコリー》連作とほぼ同時期にみられる証言や年代記制作が、画面上のモチーフの変更に影響を与えたと考えられるだろう。ヴィッテンベルクにおいて象徴よりも現実的なレベルの表象として機能するものであったからこそ、彗星というモチーフを作品には用いることができなかったのではないだろうか。その代用としてクラーナハは、土星の影響下にある魔女を用いたと考― 447 ―

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