鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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12世紀末に位置付けている。様式的な特徴から以下の3期に分けられる。a)初期 13世紀初頭−1215頃 Chartres, Angers, Bourges etc.b)中期 1230−50頃  Coutances, Auxerre, Lincoln, Tours⑴, Ste. Chapelle de Paris etc.c)後期 13世紀第3四半期頃 Tours⑵, Sait-Urbain de Troyes etc.「ヨハネ黙示録」の著者と同一視されていたからである(今日の聖書学では両者が別人であることは周知の事実)。ゼベタイの子で大ヤコブの兄弟であるヨハネは(注6)、教会伝承においてローマ皇帝ドミティアヌス帝(在81−96頃)の統治下でローマへ連行され、ラティナ門で煮えたぎる油釜の中に入れられるも奇跡的に難を逃れたとされる。やがてエーゲ海の孤島パトモス島に追放され、そこで「ヨハネ黙示録」を著わした。その後エフェソスへの帰還を果たし「ヨハネ福音書」を書いたとされる。彼は90歳以上の高齢で天寿を全うしたとされる。12使徒のうち、ヨハネのみが穏やかに死を迎えたのである。《聖ヨハネ伝の窓》では流刑地パトモス島で「黙示録」を執筆する姿や死者の蘇生等の奇跡譚が数多く盛り込まれている。ここで彼は福音書記者としてではなく、むしろ「黙示録」の著者としての役割が強調されていることがわかる。そもそも「黙示録」は、希望のメッセージを伝える重要な役割を担っていた。ローマ帝国で迫害に曝されていたキリスト者に勇気を与えるための書物だったのである(注7)。著者のヨハネはそれ故、神から人間に与えられる「啓示」を、信徒を代表して神の御許にひれ伏して受けとめる。黙示録の著者像が聖堂に表された窓が《聖ヨハネ伝の窓》である。以下具体的に窓を読み解いてみよう。Ⅱ 『カタログ』抄 ─《聖ヨハネ伝の窓》の現状より─『カタログ』の目次(注8)より窓全体を概観した上で、3つの具体例をあげておきたい。シャルトルの窓とトゥール大聖堂の2つの窓を取り上げて窓の実際を見ておこう。①分布状況〔図1〕 パリを中心とする北フランス一帯から、イギリス東部リンカンに及ぶ範囲のゴシック期聖堂を中心に17例が分布する。現在のところリヨンが最南端となり、それより南には確認されていない。ノルマンジー、シャンパーニュ、さらにトゥーレーヌ地方を含む地域分布を示す。②制作年代 17例は概ね13世紀の窓と考えられている。一部の研究者は1〜2例を― 458 ―

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