鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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研 究 者:東京造形大学、武蔵野美術大学 非常勤講師  足 立 純 子はじめにハンガリー工芸美術館(ブダペスト、1896年開館)は、かの地のアール・ヌーヴォー建築の代表作として知られる〔図1〕。この美術館は「様々な要素が入り混じり、どれにも見覚えがあり、しかも完全に新鮮な意匠」と評された(注1)。パッサウ大聖堂、パラッツォ・ドゥカーレ、インド=イスラムなど既存の様々な建築との類似が指摘されたのと並行して(注2)、設計者レヒネル・エデン(Lechner Ödön, 1845−1914)(注3)の残した数少ない言葉に負って、同時代の祖国にふさわしい建築様式の創出を試みた作品であると了解されてきた(注4)。だが、そうした建築要素の選択から彼がいかなる祖国像を表現しようとしたのかについては、十分に議論されていない。本稿では、工芸美術館の内部にある中庭ホールの造形的源泉を、レヒネルのイギリス旅行の中に求めていく〔図2、3〕。彼がその旅で得た造形上のヒントのうち紙幅の都合から版画に焦点を絞り、イギリスの版画家ダニエルの制作したインドの版画が重要な役割を担ったとする仮説を提出する。これを通じ、ハンガリー国内の地方に残る建築に源泉を求める後年の先鋭的な建築運動とは異なって、広い視野からハンガリー性の表現を追求するレヒネルの造形への態度を明らかにしたい。報告では始めに、レヒネルがダニエルの版画を見出すまでを述べ、その後版画のどの点がハンガリー建築に適していると捉えられ導入されたかを考察する。1 ハンガリー工芸美術館についてハンガリー工芸美術館の沿革は次の通りである(注5)。サウス・ケンジントン博物館(現ヴィクトリア&アルバート博物館、1857年開館)やオーストリア美術産業博物館(1864年開館)に類する施設の開設への気運が高まり、1864年に原型が草案される。長らく間借りをしていたが、恒常的な建物が設計競技(公示:1890年11月、締切:翌年5月)を経て建造されることになった(注6)。競技要綱には様式の指定がない一方、「ガラス屋根で葺かれた中庭ひとつ」が要件に含まれていた(注7)。レヒネルが一等を得た後、建造は93年から始まり、96年の建国千年祭の一環として開館する。工芸美術館の中庭ホールは、27×18mの四隅が面取りされた長方形である。これを― 38 ―④ハンガリー工芸美術館(レヒネル・エデン設計)の建築デザイン研究─イギリス芸術との関連を巡って─

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