説」(注3)が挙げられるのみである。瀬木氏の論考は、表題にケクランの名を付しているものの、論の中心に据えられているのは、ルイ・ゴンスやシャルル・ジロといったケクランより前にすでに活躍していた大コレクターたちである。また、馬渕氏の解説も、ケクランの生涯と著作Souvenirs d'un vieil amateur d'art de l'Extrême-Orient『極東美術の老愛好家の回想』について紹介、解説したもので、ケクランに関する日本語による本格的研究は未だなされていないと言える。このように、日本のジャポニスム研究で十分な検討がなされていない理由としては、ケクランの生年や、この後に見る彼自身の告白からも明らかなように、彼がコレクションを始めた頃にはすでに多くの大コレクターたちが存在した、いわば第二・第三世代のコレクターとしてしか認識されてこなかったということが指摘できる。一方フランスでは、同時代証言や没後追悼文(注4)を除くと、1993年にEcole du Louvreの卒業研究として、彼の全生涯、事績、主要著作について論じられたもの(注5)がケクランに関する最初の研究である。2000年以降には、ケクランを主に中世美術の美術史家として論じたMichele Tomasiの2点の論考(注6)、さらに一昨年にはRaymond Kœchlin qui a retrouvé la Joconde『モナリザを取り戻したレイモン・ケクラン』(注7)が刊行されるなど、本格的研究が始まったところと言えるだろう。これらの先行研究によって、ケクランの生涯や事績については明らかになりつつあるものの、彼の幅広い交友関係や、多方面に渡った活動などを詳細に把握するには至っていない。特に仏語先行研究では、ジャポニスムや、日本美術との関わりについての扱いが比較的小さく、より深く検討する必要がある。まず、ケクランにとっても、ジャポニスムという芸術潮流にとっても、一つの大きな転換点となった1890年の出来事に着目したい。ケクラン自身の口からそのことについて語られているのがSouvenirs d'un vieil amateur d'art de l'Extrême-Orient『極東美術の老愛好家の回想』(注8)(以後『回想』と記す)である。本書は彼の死の一年前、1930年に販売目的ではなく、親しい友人たちに配布するために220部のみ印刷された私的回想録である。少し長くなるが、ケクランが初めて浮世絵と出会った際の衝撃や感嘆が、生き生きとした文で綴られた箇所を引用する。 (ジークフリート・)ビングが1890年に国立美術学校で開催した浮世絵展には、主だった愛好家のコレクションが出された。私は自分の偏見に固執し、その展覧会には全く行かなかったのだが、ある日、『日刊論争』紙の仕事場からの帰り、― 483 ―
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