鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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1894年のことで、同時期に浮世絵一枚を寄贈していたガストン・ミジョンと示し合わせて、三枚の浮世絵を収めている。これは前年の1893年に、ルーヴルに初めて日本美術(浮世絵)が収蔵品として入ったものの、その後の予算が少なかったために、ミジョンが周囲の人々に働きかけて寄贈を受け、少しずつ所蔵品を増やしていたことと関係しているのだろう(注11)。こうした予算不足の状況を受けて、フランスでは1895年に美術館基金Caisse des Muséesが設けられた。そして、さらにその2年後の1897年、ルーヴルの資金力不足を解消するために誕生したのが、ルーヴル友の会La Société desamis du Louvreである(注12)。友の会設立に際して、ケクランは書記に任命され、1900年には書記長となった。友の会の主な活動内容としては、ルーヴルの収蔵品を購入するための資金援助や、友の会の理念や活動を広報することで、ルーヴルへの美術品寄贈を促すということが挙げられる。友の会の協力を得て購入、あるいは寄贈された作品には有名なものも多く、アングルの《トルコ風呂》(1911年寄贈)、クールベの《画家のアトリエ》(1920年購入)などもその例に含まれていた。その上、ケクランが友の会会長となったのは1911年なので(以後1931年に亡くなるまで会長を務めた)、彼はこれらの世界的名画のルーヴル収蔵に深く関わっていたことになる。さらに、在職中の大事件として、1911年の《モナリザ》盗難があった。その際には、犯人逮捕のための賞金や、最終的な謝礼金を友の会で準備することを決定し、ケクランは《モナリザ》を取り戻すことにも一役買ったのである(注13)。しかし、友の会でのケクランはこのような人目をひく活動ばかりでなく、地道に、そして精力的に、ルーヴルのコレクション拡充のための活動を行っていた。彼は友の会の総会のたびに演説で会の理念を説き、美術館のコレクションを充実させるための寄贈や遺贈を呼びかけている。ルーヴル友の会25周年を祝った際の演説では、「およそ3000人ものメンバーでこのように祝うことも、ルーヴルに傑作や重要な作品をもたらすために、ここ数年で100万フラン以上を費やすようになることも、当初は想像できなかった」(注14)と述べており、友の会の発展ぶりがよく分かる。この時代、日本美術の値段も上がり、社会的な趣味も変化して、以前のように個人で作品の購入、収集を行うことは難しくなっていた。それと同時に、前世代の大コレクターたちの売立が頻繁に行われ、他国からやって来た学芸員や美術商の手にそれらのコレクションが渡ることも多かった。こうした状況を踏まえ、個人コレクションを散逸させずに、またフランス国外への流失も防ぎ、社会の共有財産として美術館へ寄贈、収蔵されるというルーヴル友の会の理念は、一般にも大いに受け入れられたのだろう。個人がコレクションする時代から、美術館への作品収蔵へと移り変わったので― 486 ―

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