二層の展示室が囲んでいる。長手の柱間は5つ、短手は3つで、柱間をつなぐのは、1階・2階ともオリエント建築を想起させる多弁形アーチである。ホールの上部には鉄構造に支持されたガラス屋根が二重に葺かれている。鋳鉄製の構造にはアーチと呼応するようなカスプが認められ、鉄材の一部には花形のくりぬき模様がほどこされる。ホールの床面レベルは周囲の展示室より下にあるため、階段が設けられている。竣工当初はガラス天井の周囲をステンドグラスが巡り、壁面には色彩があったが、現在ステンドグラスは失われ壁面は白塗りされている。中欧の美術館建築には、ガラス屋根の葺かれた中庭ホールが散見される。大型展示品の設置や光源の確保に配慮して導入された空間が、ドイツではやがて皇帝を称揚するための空間として壁画や装飾を備え変容していった(注8)。ハンガリー工芸美術館の中庭ホールにも、何らかの意味が込められているのではないだろうか。2 問題の所在レヒネルは、工芸美術館を設計する前に二度イギリスを訪れている。一度目は1889年11月でサウス・ケンジントン博物館を訪れた(注9)。二度目の時期や訪問場所は明らかではない。現地に赴けないためオリエント建築は写真や出版物から学ぶしかなかった、と彼は「スケッチ的自伝(以下、自伝)」の二度目の旅の後に記した(注10)。しかし建築家はいずれかまたは両方の旅で、同館併設の国立美術図書館においてオリエント建築やインドの植民地建築について関心を強める機会をもちえたと推察される。ケシェリューによれば、19世紀にハンガリーでロマン主義が隆盛し、建築家が民族のルーツとされた東方に注目したころ、インド建築の印象はイギリスの版画集などを通じてムガール建築と結びついていた(注11)。レヒネルが書物に学んだという記述と同氏による示唆から筆者は、工芸美術館の外観デザインとインドの植民地建築の関係を考察した(注12)。そこではレヒネルが、インドの植民地建築を、ゴシックとオリエントの様式を調和させていると捉え、この形式を東西両文化の特質をもつハンガリーの表現に適用した点と、イギリスに植民地化される運命を負ったムガールの建築要素を避けた点を指摘した。だがそれ以降イギリス芸術とレヒネルを巡る研究は進んでいない。イギリスの版画家ダニエルとは、18−19世紀転換期に活躍したトーマス・ダニエルとウィリアム・ダニエル(Thomas Daniell 1749−1840, William Daniell 1769−1837)なる叔父と甥の二人組である(注13)。インドに9年間滞在した二人は、帰国後、都合6― 39 ―
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