鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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研 究 者:岡田美術館 主任学芸員  小 林 優 子本稿では明末蘇州派の画家盛茂燁の画業を中心に報告する。盛茂燁は、日本の文人画の詩情表現を論究する際、最も重要な画家の一人とされながら、その画業の実態については、国内における認識が浅いため、盛茂燁に対する理解が本研究で不可欠な課題と判断されたからである。日中関係の考察は、単に日本の画家が学んだ対象の指摘と中国の優位、あるいは相違に基づく日本の独自性の称揚を目的とすることなく、中国絵画に対する理解を通じ、日本絵画、日本文化、ひいては東アジアの文化全体をより深く精緻に理解するために行うものである。1 伝記および研究史の概要盛茂燁(生没年不詳)は長州(江蘇省呉県)の人。印文から、字は与華、号は研庵・念庵とされる(注1)。明末蘇州を代表する画家で、山水人物画に優れた。画伝類中の評価として次のような記載がある。写山水布景設色、頗具烟林清曠之概、人物亦精工典雅、意在筆先、饒有士気。前者の「(山水画が)頗る烟林清曠の概(おもむき)を具ふ」という言は、現代でも肯かれるものである。後者の「宋元の遺意はない」とは、「宋元の遺意」の解釈如何で意見が分かれるところであろう。作品は管見の範囲で78点に上り〔表1〕、最も早い年紀作は万暦22年(1594)の「五百羅漢図」(丁雲鵬と合作、仁和寺・京都国立博物館、〔表1−1〕)である。以降しばらく作品の少ない時期が続いたのち、万暦46年(1618)から崇禎13年(1640)までほぼ毎年、作例が見られる〔表1−7〜62〕。したがって、主な活躍期は明末の天啓・崇禎年間(1620〜30年代)であることが確認される。日本における作品の所在の多さは、米澤嘉圃が述べたように、幕末明治期、明清書― 491 ―(『無聲詩史』)樹木槎牙、山頭高聳、雖無宋元遺意、較後呉下之派、又過善矣。(『図絵宝鑑続纂』)(注2) 日本の文人画における詩情表現の研究─日中関係を中心に─

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