第一に、絵画表現の特徴について。〔図1〕で述べたことは盛茂燁の作品全体に通じる。線描の限定的な使用と巧妙な墨遣いよって現実の自然に相対した際の視覚的な体験を再現している。作品の多くは、夜明け・薄暮・歳末・風雨といった、明暗・寒暖・乾湿などが移ろっていく時候の状態を雲煙とともに描くもので、それらが視覚を通じて体感されるのである。ケイヒルによれば、鑑賞者の視覚は、輪郭線の不在と事物の形態が不完全であることによって、より自由に、画面という架空の空間内を動くようになるという(p. 124)。第二に、題詩と画との関係である。ケイヒルは、盛茂燁の画冊全体の特徴を以下のように述べる。当時、標準的であった慣習にそって、原詩の内容を明らかに無視している。より重要なことは、作品を当時のライフスタイルに適応できるようにすること、あるいは理想的に変奏することだ。画中の人物や建物は、詩人の主観的な感興を不特定の誰かの感興へと変換するものであって、題詩の対句は、隠遁生活や旅中のイメージ作りの手段として適用されている(pp. 111−112)。ここで出典の明らかな2図の題詩(対句)の原詩を挙げる。〔図1〕張籍「華州夜宴庾侍御宅」 世故他年別 心期此夜同 千峰孤燭外 片雨一更中 酒客逢山簡 詩人得謝公 自怜駆匹馬 払曙向関東〔図4〕司空図「江行」 地闊分呉塞 楓高映楚天 曲塘春盡雨 方響夜深船 行紀添新夢 羇愁甚往年 何時京洛路 馬上見人煙(以上、下線筆者)これらの全文に目を通したとき、ケイヒルの述べるとおり、詩人の肉声が伝わると同時に、限定された場面が想像される。とりわけ〔図4〕の詩では、春の雨後、呉・楚を隔てる地にあって、夜更けに船の音を聞きながら帰京の日を思うという羈旅の情が明らかである。しかし、盛茂燁が描いたのは、詩と関係のない農夫が帰り行く夕景である。さらに原詩にない寺院の塔の存在が目立ち、水榭のなかの人物が聞いているのは、詩にいう船の音ではなく、晩鐘であろうと想像される(pp. 117−118)。ケイヒルは次のように述べる。詩・画の関係は希薄で(p. 123)、その結果、鑑賞者は、詩を(画の内容をあらわすテキストとしてではなく)自らの解釈の材料とすることになる。ひいては、自身の解釈を生み出さざるを得ないだろう。しかし実のところ、― 494 ―
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