と〔図2〕 の類似は特筆されよう。南宋宮廷画─盛茂燁─蕪村という、ケイヒルの述べる詩的絵画の継承関係に肯かれるのである。ここで挙がる画家が、日本の文人画の大成者とされる二人のうち蕪村であって大雅でないことは、両者の筆墨の傾向の違いに起因するところが大きい。蕪村が墨遣いに長け、風雨・明暗・寒暖・煙霧などの表現に優れたことは、盛茂燁と共通する。一方、大雅は、幼少より書に優れたことからもうかがえるように筆遣いの洗練を極めた画家で、筆跡を抑える墨面の扱いは必ずしも得意としない傾向にある。ただし詩の扱いにおいて、大雅もまた、南宋画を基盤とした盛茂燁らの実践を理解した上で江戸時代の需要に合わせ翻案していたようである。例えば「寿老四季山水図」(出光美術館)の秋幅「江上笛声図」では、唐の七律の第4句のみを題し、原詩と全く異なる情景を描いている。この点に関し、筆者は以前、「詩意の転生」という語を用いて論じた(注15)。盛茂燁の作品を踏まえ再考を重ねたい。さらに、詩的絵画の系譜上、蕪村に連なる近代の画家として川合玉堂を挙げる。墨遣いに長じた玉堂には、蕪村の作品から直接、刺激を受けたであろう作品が散見される。農村を描いた作品群も、本稿で述べてきた詩的絵画の主題の変奏としてとらえ得る。玉堂の絵が「日本の原風景」(注16)と称されるに至ったのは、ケイヒルがしばしば言及する詩の本質=人間の根源的な営みに迫る主題を、玉堂の生きた時代にふさわしい表現で描いたからであり、そこには、俳人・歌人しての素養の深さが強く作用しているはずである。先行する詩を画面に記した絵、あるいは題詩がなくとも主題がそれとわかる絵は、一般的に詩意図と称される。盛茂燁の画業を知ることによって、そのような認識の再考が求められるであろう。ケイヒルによれば、盛茂燁は、テキストと異なる詩情を絵画によって意図的にあらわした。それは、絵画における詩情表現がもっとも高度に洗練された南宋絵画の伝統を踏まえたもので、のちに日本の文人画家が継承・発展させた。「詩画不一致」こそ、鑑賞者の自由な鑑賞と解釈を促し、そこに新たな詩情が生まれたこととなる。このような研究は、物語絵画の研究に通じ、一方で、本文中でも述べたように、詩情という、時代と洋の東西とを超えた人間の営為の問題へと広がっていく。絵画の詩情表現に関するケイヒルの研究は広く奥深い。その理解に努めつつ、批判も含た発展へとつなげていきたい。― 496 ―
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