鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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研 究 者:福岡市博物館 学芸員  末 吉 武 史はじめに九州地方には畿内その他の地域とは異なる形制を示す神将形像が平安時代後期になって突如現れる。その形制とは、四天王像の場合4躯すべてが兜を着け、両手を前方で交差して剣を地に突くものが含まれること、毘沙門天像などの単独像であれば通常彩色の金鎖甲の文様が彫刻であらわされ、なおかつその多くが兜を着けていることなどである。金鎖甲の彫出は四天王像の中にも認められ、単独像は四天王像のうちの多聞天像を抽出したものとみれば、いずれも同軌の表現と言えよう。既にこうした作品については、大分・真木大堂四天王像や大分・永興寺毘沙門天像などの類例が北部九州に多く残ることから、田邉三郎助氏は平安後期の九州に係る形制の四天王像の系譜が流布した可能性を指摘されている(注1)。金鎖甲を彫出する作例は畿内にも若干存在し、中央から地方へという一般的な文化伝播の方向に沿った検討も必要であるが、一連の神将形像が在地的な造像コンテクストと密接な関係をもって成立している可能性は否定できず、九州固有の地理・歴史的特性に沿ってこれを検討することは必須の作業と言える。特に中国の神将形像に類似の表現がしばしば認められることや、当該期に活発であった中国・寧波と九州・博多間の国際交流を勘案すれば、南宋彫刻の影響という可能性も視野に入れた検討が必要かと思われる。本研究では以上のような視点に立ち、一連の作例を集成し、作風等によって制作時期の前後関係を整理し、作品相互の関連や共通の条件を考察する。そして兜や両手の形勢、金鎖甲彫出のもつ意味を読み解き、平安後期の九州に特異な形制の神将形像が出現する背景について、一定の理解の目処を立てることを目指したい。一、作品一覧本研究では平安時代後期から鎌倉時代初期の制作とみられる彫刻作品で、冒頭で述べた特徴を示す四天王像(二天王像を含む)と十二神将像、そして毘沙門天等の単独神将形像のうち金鎖甲を彫出するものを対象とする。ただし単に兜を着ける作品、及び金鎖甲を彫出する中国将来像の京都・教王護国寺の兜跋毘沙門天像及びその模刻は含めない。管見に触れた以上の条件を満たす作例は次のとおりで、作品名・所在地・所蔵・像高・材質・年記・兜と両手交差・金鎖甲彫出について・指定・図版No.の順で記載した。また、全体を便宜上九州に所在するものと、それ以外に分けた。― 501 ― 九州における平安後期神将形像の基礎的研究

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